あの雨が嘘だったかのような青空。 だけど、サウナにいるような高い湿度が、確かに昨日の大雨の存在を主張していた。 その中で行われた、ダブルス1。 体力の限界まで、精神力の限界まで削りあい、 パートナーとの絆の強さを見せ合った。 タイブレークにまで及んだ、この壮絶な試合は。 「ゲームセット!ウォンバイ……氷帝!」 うちのゴールデンペアが、勝ち取った。 そして――――――。 「勝つのは氷帝!負けるの青学!勝つのは氷帝!負けるの青学!」 今までの試合で、一番の声援。 この大コールを促した張本人は、今、私の目の前にいた。 ラケットを持ち、まさしくコートに『君臨』する姿は……出会ったころより、大きく、美しくなっていた。 あの時は思っても見なかった。私が、こうして景吾と同じ舞台を踏むことになるなんて。 思っても見なかったよ、この場面を、間近で見られるなんて。 仲間として、見られるなんて。 「…………がんばれ」 「……」 目の前にいる人は、すぐに触れられる距離。 ただ単に本を見ていたころとは、違う。 「がんばれ、景吾!」 精一杯の、思いを込めて―――笑った。 『見送りは、笑顔で』 そう教えてくれたのは景吾だった。 そして。 いつも景吾は、行くときに笑ってくれていたから。 厳しい戦いに行くのはわかってるけど……笑った。 「…………行ってくる」 景吾がぽん、と頭に1つ手を置いて―――同じく、笑ってくれた。 ザッと身を反転させ、コートへ向かう姿は、まさしく『王』の名にふさわしい誇りを背負っていた。 「………………がんばれ」 全て、この1戦で決まる。 何をしようと―――後は、この試合の行く末を見守るだけ。 どうか。 どうか、景吾にとって、悔いが残らない試合であるように、と。 青い空に向かって、祈りを捧げた。 ネットをはさんで対峙する2人の圧倒的なオーラに、逆に会場が飲まれていた。 しょっぱなからまず、威嚇合戦。軽口……とは言いがたい、毒舌の応酬。 …………景吾さんは、昨日の私の忠告にも関わらず、その端正なお口にチャックをすることはなかったみたいで……。 「オマエに負けたら、坊主になってやるよ」 …………という発言が出てしまったけれども。 試合が始まれば、先ほどの少し軽いやり取りはなかったかのような、真剣試合。 両者とも、最初からパワー全開だった。 全ての持ち得る力を使い、磨き上げた技術を見せ合う。 2人の熱い戦いが、場内の全ての人の目を釘付けにしていた。 リョーマの無我の境地。 始めて見たそれに、ただただ圧倒された。 プレイスタイルが不規則に変化する、それは傍から見たら、とても不思議な光景だった。 今までは『柔』のテニスをしてたと思ったら、次の瞬間には打って変わって『剛』のテニススタイルに変わる。一瞬のうちに変化するそれに、見ているこちらの目と脳が対応しきれていなかった。ポイントが決まってからやっと、リョーマがやっていたプレイを理解する、それで精一杯だった。 普通の人間だったら、ただ圧倒されて終わるだろう。 だけど景吾は、新しく身につけた『氷の世界』で対抗した。 地道に 相手の死角を正確に突くという、冷徹な能力の前に、リョーマはあのときの真田くんみたいに、反応すら出来ていなかった。 これでもかというほど続いていたラリーが、途切れ始める。 4−0になり、景吾の圧倒的有利な展開で試合は進む。 そのうちに……リョーマが両目を閉じた。 「なんだ、アイツ!とうとう観念しやがったか!?」 会場を包む、氷帝の歓声。 けどそれは、一瞬にして消えた。 「!?」 途切れていたラリーが、再び続き始めたのだ。 グググ、と微かに曲がるボールの軌道。 コートの外からだと、その軌道の変化は微々たる物だったけれど……その変化がもたらすものは大きい。 見覚えのあるそれは、手塚ゾーン。 本家本元の手塚ゾーンは、その場から1歩も動かない、という代物だったけど……これはまだ未完成で、リョーマ自身動き回っている。 だけど、ボールは確実にリョーマの取れる範囲内に落ちていた。 本来、手塚ゾーンは無我では出来ない。 それなのに、手塚ゾーンを使い始めているということ、それは。 リョーマが、もう無我の境地ではないということ。 素で、これだけの力を発揮している、と言うことだ。 そこからまた、拮抗した戦いに至り―――。 勝負は、タイブレークにまで、もつれ込んだ。 「はぁっ!」 気がつけばまた、涙が溢れていた。 悲しいわけでもなく、悔しいわけでもない。 それでなくても涙は流れることを、知った。 胸を、突き動かされた。 「……おらぁっ!」 「んぁっ!」 もう―――勝ち負けはどうでもよくなっていた。 ただ、 景吾の満足するまで試合をして欲しい。 それだけを願う。 1球1球、1プレイ1プレイを、大切な宝物のように目に焼き付ける。 景吾の培ってきたもの、全てが今ここに。 それを見て感じるのは―――なんてこの人は凄い人なんだろうか、ということだけ。 聞いたコトのないカウント数を耳で聞き流しながら、ただ、全員が、コートだけを見つめていた。 永遠とも思われる、壮絶なラリー。 長い長いラリーを続ける2人を、応援団も声の出る限り、応援していた。 みんなが見守る中、試合は進んでいった。 でも―――。 リョーマが転びながら取ったボールを、景吾が滑りながらのダイビングボレーで打ち返したところで、試合は、動きを止めた。 両者ともが地面に倒れたまま、動かなかったのだ。 「!?景吾!」 サァ……と血の気が引いて、涙も引っ込んだ。 すぐに立てないほど疲労が溜まってるんだ。今すぐにも出て行きたかったけど―――こーゆー時に限って、足が痛みを主張し、上手く立てない。 尋常じゃない事態だった。 誰かに出て行って、止めて欲しかったのだけど……審判も誰も、この試合の壮絶さを見ているから、出て行くのを躊躇っていた。 テニスのルール上、90秒以内に次のプレイを始めなければ、相手のポイントになる。 このとき、ちょうどスコアは同点。 起き上がったものが、勝利する、と太郎ちゃんが呟いた。 「おらぁー!立て、跡部!お前が倒れてる様は似合わねぇ!」 「跡部!」 「部長―――!」 景吾は、動かない。 ―――やっぱり、ダメだ! 立てないほどの疲労なんて、半端じゃない。それに、転んだ拍子にどこか打ってるのかもしれない。その所為で立ち上がれないんだったら。もっと危険だ。 照明ポールにつかまり、なんとか立ち上がろうとしたら、近くにいた侑士が手伝ってくれた。 そのままコートに向かって走り出そうとした私を、侑士が止める。 「……っ……侑士……!」 「……ちゃん、跡部を信じとき。あいつは絶対、ちゃんの期待は裏切らへん」 侑士の言葉に合わせて、樺地くんが呟いた。 「勝つのは、氷帝です……」 バッとコートを見る。 涙が、また溢れてきて―――周りに散った。 それはまるで、手塚くんとの戦いの時のようで。 「景吾……!」 やっぱりあの時と同じように、ただ、名前を呼ぶことしか出来なかった。 瞬間。 景吾が、動いた。 みんなを率いてきた右手を地面につけ、確かな力で、立ち上がる。 「……っ……立ったのは、氷帝跡部だぁ!」 立ち上がり、ネット際で倒れたままのリョーマを一瞥した後―――ゆっくりと、エンドラインまで歩いていく。 しっかりとした足取り。……平気そうで、よかった……! 景吾がエンドラインに辿り着いた時。 リョーマもまた、立ち上がった。 「まだまだ、だね……っ」 こちらも、しっかりとした足取りで、エンドラインへ。 ポーンポーン、とボールをつく余裕すら見せてから―――リョーマがふわっ、とトスを上げた。 「俺は青学の柱になる!」 リョーマの決意と共に放たれたサーブは、代名詞であるツイストサーブだ。リョーマがスピンサーブのモーションで打ってくるということは、それしかない。 きっと、今までで1番強烈。1番力のこもったものだろう。 それでも、景吾なら返せないものではない。 誰もが、再びのラリーを予想した。 けど。 景吾は、 ……動かなかった。 顔のすぐ横を通り抜けていく、サーブ。 人が思わず目を瞑ってしまい、本能的に避けてしまう場所を通り抜けていくボールに、反応すらしない。 ―――会場内が、静まり返った。 「………………!!景吾……ッ……!」 「跡部よ……」 凍りついた会場に響く、落ち着いた声。 「気を失って尚―――君臨するのか」 生涯のライバルの賛辞を、景吾は聞くことはなかった。 もう―――涙で目の前が見えない。 侑士か誰かの手が、ぽん、と肩を叩く感触だけが、した。 そして、次の20秒が経過し―――。 「ゲームセット!ウォンバイ、青学越前!」 審判の声が、コートに響き。 全国大会準々決勝は、終わりを告げた。 NEXT |