ドガンッ! とんでもない音が鳴った。 体に微かに振動が伝わり―――次いで、気温が下がったのではないかと思うほどの、ひやりとした空気。 ―――これは冷気か、殺気か。 …………跡部の周りを取り囲む空気が、一瞬にして変わった。 有野田の言葉を聞いたとたんに、跡部の目の色が変わった。 マズイ、と思た次の瞬間には、ドガンッ!という破壊音。 跡部の丁度真後ろにいた岳人が、ビクッと身を縮こまらせた。 跡部の右手がまっすぐ壁まで伸びとって。 握られた拳は、その勢いと力で、確かに壁を抉っとった。 つまりは。 跡部が、壁を殴ったんや。 「……あーぁ……俺、知らんでー……」 跡部の冷たい空気から離れるように、俺は1歩下がる。 先ほどの破壊音で、全員静まり返っとったが―――沈黙を破ったのは、その破壊音を発した張本人、跡部やった。 「……試合がなくて好都合だぜ……心置きなく、拳が使えるからな」 誰にともなく一言呟くと、ゆっくりと跡部が壁から拳を離す。 可哀相に壁が、跡部の拳の衝撃そのままに、変形しとった。 呆然と周囲がその抉れた壁を見る中、ありえん速さで跡部が有野田に近寄る。 有野田が一瞬逃げようと思たのか、わずかに動くのが見えたんやけど、跡部はそれよりも早く、左手でヤツの頭を掴んだ。 「…………お遊びが過ぎたな、有野田。今まで構わずにいたが……まで巻き込みやがって……今回は手加減しねぇぜ?…………この際、一度死んどくか?あぁん?」 ギリギリ、と跡部の指が有野田の頭を締め付ける。 鍛えとるアイツの握力は半端やない。たかが左手、たかが指の力、とあなどっとったら、とんでもないことになる。 けども、それを止めようもんなら……俺らがもっととんでもないことになる。 SPが慌てて、2人に近寄ろうとした。 ……が。 「……近寄ったら、どうなるかわかってんだろ?あぁ?……まさか、人の本気すら見抜けねぇ、腑抜けどもじゃねぇだろうな?」 跡部の冷たい声音に、SPがうっ、と動きを止める。 それを見た跡部が、優雅に微笑んだ。 「…………主人と違って、なかなか賢いじゃねぇか。……わかってんなら…………さっさと下がれ!」 跡部の一喝に、SPが有野田の様子を窺う。 有野田が、『いい!』と一言だけ怒鳴ると、SPが悔しそうな表情をしながら、下がった。 その有様を見とった岳人が、ボソッと呟く。 「……あー、Sっ気全開だな、跡部のヤツ……」 「の前じゃ絶対見せないよねー……」 「……ぶっ壊れたな」 まぁ、最高に壊れたんは、あの春の日やとは思うけど。 あのときの壊れ方は尋常やなかったし、な……。 ……まぁ、こいつらは、あの春の出来事は知らんから、言わんでおく。 「……こ、こんなことして、彼女がどうなるか……」 「あぁん?……まーだそんなこと言ってやがんのか、テメェ。……に手ェ出してみろ。お前の体、五寸刻みに切り刻んでやるぜ?」 「…………ッ」 「……この状況じゃ、どっちにしろお前はに手は出せねぇ。……さぁ、どうしたい?泣いて土下座でもするか?……ま、許してなんか、やらねぇけどな」 ふっ、と跡部が嘲笑を漏らし、握り固めた右手を動かしかけたその瞬間―――。 バターン!!! ドアを開け放つ音が、2階の方から聞こえてきて、まさに有野田の顔面に届こうとしていた跡部の拳が、ピタリと止まった。 「……待て……ッ!」 「待つわけないってーの……っ!」 微かに声が聞こえ、バタバタという何かが駆ける音。 たとえその声が小さくても、俺らがその声の主をわからんはずがない。 全員がハッとして、吹き抜けの階段を見上げる。 すぐに跡部が叫んだ。 「……ジロー!岳人!2階だ!」 「……ほいきたっ!」 「任せとけ!」 跡部の声に、素早くちっこい2人がすぐに反応した。 跡部と有野田の脇を走り抜けて、階段を駆け上がる。 「あっ、コラ、待―――」 「……まーだ話は終わってねぇぜ、あぁん?」 有野田の頭を掴んだままの跡部が、再度ギリギリと締め上げる。 「いいか、有野田。世の中、バカの種類は2通りある。知識を持とうとしようとしない馬鹿と、持っている知識を使えない馬鹿。……お前は、後者だな。……を奪われた俺様がどうするかなんて、明白じゃねぇか」 「つっ……痛っ!!!」 有野田の悲鳴と、跡部のSっ気全開の笑み。 俺は、その場に残っとった宍戸と2人、その様子をただただ見とった。 …………ホンマ、割り込んだら何されるかわかったもんやあらへん。 「…………跡部、完全にぷっつんしてんな……このままだと、本当に殺しかねねぇんじゃねぇの?」 「せやかて、自分、止める勇気あるんか?」 「……いや……つーか、こうなった跡部、もうどうにもなんねぇだろ。近づいたら、確実に殺られる」 「……せやな。唯一止められるとすれば―――」 バタバタバタ、とぎょうさん足音が聞こえてきた。 いきなり姿を現し、階段を駆け下りてくる人間が3人。 「イエー!奪還〜!」 「っていうか、がほとんど1人で逃げてきてたんだけどね〜」 笑顔全開の岳人、ジロー、そして―――ちゃんが走ってきた。……元気そうや。よかった。 階段を駆け下りながら、ちゃんが叫ぶ。 「景吾!あぁぁ、もうソイツ、1発殴って―――イヤ、殴ったら手ェ痛めるから、1発蹴っといて!ホント、迷惑なヤツー!!!」 憤慨するちゃんが、息を切らせながら跡部の近くに行った。 跡部のヒヤリとした空気がなくなり、表情が、変わる。 「任せとけ。1発でいいのか?少なすぎじゃねぇか?」 「へっ!?……いえっ!1発で十分です!」 「わかった。……というわけだ、寛大なと俺様に感謝しろよ?」 そう言って、跡部がドカン、と蹴りを入れた。 ザザッ、と有野田が尻餅をついた。 有野田が尻餅をつくまでは見ずに、すぐさま跡部はちゃんに近寄る。 「、お前……自力で逃げ出してきたのか?」 「囚われのお姫様なんて、柄じゃないですから……もう、めちゃくちゃに暴れまくってやった!回りくどいことせずに、最初っから暴れてればよかった〜!」 へへっ、と笑うちゃんは、めっちゃかわいいんやけど……ホンマ、無茶しよる……!無事やったからよかったけども、何かあったらどないすんねん……!この子はまったく、目が離せんわ……。 跡部も同じような気持ちなんやろう。はぁ、と1つ大きく息をつくと、ちゃんの髪の毛をくしゃり、と撫でた。 ちゃんが少し目を細めて跡部を見て―――その後、尻餅をついたままの有野田に目を向ける。 「だけど……うわー、ごめん、有野田くん……思いっきりキツイ1発になっちゃったねー……」 「謝る必要なんて微塵もねぇよ。少なすぎるくらいだ」 「……うわーぉ…………」 「さて……他にどんな制裁を与えるか……お前は何がいい?」 倒れた有野田の頭を再度掴み、物騒なことをさらりと言ってのけた跡部。ちゃんが案の定、目をまん丸にして驚いた。 「景吾……!?あの1発は……!?」 「あーん?お前がされたことの礼があの1発じゃ、流石に安すぎるだろ。……お前、何された?やられたことと次第によっちゃ……」 ちら、と有野田を見やる跡部の目は、また冷たい光を帯びていた。 ちゃんからはちょうど見えない。 跡部の様子も知らんと、ちゃんが上を見上げて、少し思案した後―――可愛い声で答えた。 「へ?……えーっと……目隠しされて部屋に運び込まれて……周りにはターミネーター'sがいっぱいで、ごちそうが目の前にあって……あぁ、ブドウがおいしかった」 ………………ぶどう? 跡部を含め、全員の動きが止まった。 「……フン、当たり前だろう。あの葡萄は山梨の専属契約農園で作らせた、最高級品質のものだからな……」 「勝手にしゃべるな」 ボソボソと呟いた有野田の頭を、跡部がゴン、と殴った。 ……結局、殴っとるやん…………。 次いで、呆れたように、ちゃんを見る跡部の目は、いつもの目やった。 くしゃ、とちゃんの頭を1つ撫でる。 「お前な……さらわれた家で出されたもんに、手ェつけんじゃねぇよ……ったく……なんか仕込んであったらどうするんだ」 「だ、だから1番仕込みにくそうなブドウを食べたんだよー……他にも、おいしそうな料理とかいっぱいあったんだけどさ……でも、おいしかった。から、ほら……そりゃ、かーなーり、むかつくけど、景吾が『制裁』とか言うとシャレになんないから……」 ちゃんの言葉に、跡部が小さく息を吐いた。 ぽいっ、と掴んでいた有野田を放り出す。 「……本当にお前、に感謝しやがれ」 それだけ言うと、跡部がちゃっかりちゃんの肩を抱いて、方向を反転させる。 「さて、と……帰るか。もうこの家に用はねぇしな」 「おう〜。ほんじゃ、ばいB〜♪」 「じゃーな」 「……ホント、バカなことしでかしたもんだぜ」 ジロー、岳人、宍戸が外へ向かって歩き出した。 「……いいか、有野田」 跡部が、屋敷を出る寸前に顔だけを向けて呟く。 「今度俺様に刃向かうときは、もう少しその馬鹿を治してから、かかって来い。……じゃねぇと、2度目は何するかわからねぇぜ?」 「……ッ…………」 1番後ろにいた俺には、跡部が壮絶な表情をしてるのが見えた。 きっとちゃんには見えとらんやろう……ホンマ、恐ろしい男や。 跡部が屋敷から出て行き、それに続いた岳人たち。 一番最後になった俺は、有野田に一言言うた。 「ホンマ、アホやな、自分。跡部からあの子奪って、どないする気やったん?」 「……俺は、ただ……アイツが持ってるものを奪って、苦しむ姿が見たかったんだ……」 「……ホンマに、それだけか?」 なんや裏があるような気がしてしゃーない。 ズバッ、と聞いてみると、案の定、有野田は口を開き始めた。 「跡部は……といるようになってから、変わった……」 「……せやな」 「……今までの無敵の跡部が、少しだけ変わった。だから、を奪えばさらにボロが出るかと―――」 「……それがアホや言うてんねん。……確かに、ちゃん奪ったら、1度は自分が勝つやろな。……せやけどお前、守るモン失った跡部は、前の跡部や。……それこそ、無敵になるで」 押し黙った有野田。 俯いたそいつに近づいて、胸倉を掴んだ。 「……そんでもって、今度ちゃんに手ェ出したら、俺かて容赦せんわ。……跡部が殺る前に、俺が殺るで」 「…………忍足……」 「そこんとこ、よーく覚えておくんやな。……ほな」 トン、と体を押し出して、突き放す。 有野田の呆けた表情を一瞥して、あいつらが消えた玄関の扉から、俺も出て行った。 「侑士ー?どしたの?」 玄関の外では、ちゃんたちが待っとった。 「あぁ……すまんな、ちょお躓いてしもたん」 ゆっくりと歩きながら、ちゃんたちのところへ。 跡部が腕時計をちらりと見た。 「ったく……もうこんな時間か。仕方ねぇからな、全員家まで送ってやる」 「やたー!」 「おー!さんきゅー!」 結構大変なことがあったっちゅーのに……コイツらは、なしてこない普通なん? 図太い通り越しとる神経をもっとる岳人たち。せやけど、それについとっとる俺を自覚しつつ、結局いつもどおり、ぞろぞろと車に乗り込んだ。 「みんな、あの……ありがと。それからごめんね?迷惑かけちゃって……」 「いーっていーって!気にすんなよ!」 「そーそー。俺たち、全然迷惑とか思ってないC〜!」 「ちゃんのためなら、なんでも出来るからな、俺らは。何度でも助けたるで〜」 「っていうか、第一、お前の所為じゃないしな」 俺たちの声に、ちゃんがほっ、と小さく安堵の息を漏らして、微笑んだ。 あかん。 ……この笑顔がめっちゃ可愛いねん……! 「……忍足、貴様、ここから歩いて帰るか?」 幸せな瞬間に水を差したのは……もちろん、跡部や。 なんやねんコイツ……俺のささやかな幸せすら邪魔しよって……! ホンマコイツ……いつかしばいたる……! 有野田に対するのと同じくらいの殺意が、この瞬間に芽生えた。 結局1番最初に送られたのは、俺で。 ……別に、1番遠いっちゅーわけでもないのに……絶対跡部の嫌がらせや。 「ほなな、ちゃん。また明日な。部屋に鍵かけて、跡部に気をつけるんやで!」 「え?」 「無駄な言葉は聞かなくていいぜ、。……さて、家帰ったら、風呂入って寝るか。今日は俺の部屋来るか?」 「あぁぁぁあぁ、ちゃん、このまま俺ん家泊まってけぇへん!?」 「おい、車発進しろ」 「……ちゃーん……あぁあぁ、ちゃーん!……そこにおるのは、跡部という名の猛獣やー……!」 「…………有野田……訂正するぜ。馬鹿の種類は3種類だ……どうしようもねぇ馬鹿がここにいる……」 跡部がなんや呟いた言葉は、俺には聞こえんかった。 NEXT |