一人で走っている間に、少しだけ涙を流した。
観覧席に入る前に一呼吸おいて、さっと頬を拭う。ちらりとスコアを覗けば、すでに、千歳・橘の九州ペアの試合は終盤だった。
急いでコートサイドの観覧席に戻って、様々な準備をする。
いつもどおり仕事をして、いつもどおりを装っていたのに…案の定景吾にはバレていて。

「……泣き虫なお姫様だぜ」

呆れた口調だけど、優しい声音。
ぽんぽん、と頭を撫でられたので、思わず再び涙しそうになる衝動に駆られたけど……鉄の精神で我慢した。



Act.13   から舞い散る、次への祝福


ダブルス1の試合は、6−7で惜敗。
鍛えぬかれた高校生のプレイに、さすがの九州二翼も最後は力負けした。
ただ、最後の最後。
2人に変化が見られた。橘くんが不動峰に転校した後、ほとんど一緒にテニスをしたことのない二人が……シンクロを見せた。
それは、先へ続く希望。
そういった意味で、彼らが得たものは多かった。だから、わりと晴れ晴れとしている。

そして。



「うん?」

「ちゃんと見てろよ」

いつもの笑顔で、いつもどおり自信満々にコートへ出ていく景吾は、やっぱりいつものようにジャージのホックに手をかけた。

「…………もちろんです」

私がそう返すのを見計らってからか、脱いだジャージを、景吾はやっぱりいつものように、投げ捨てた。

だから大丈夫。

―――いつものように、彼は彼のプレイをする。





最初は、景吾の圧倒的なゲームだった。
もともと、入江さんは体格がそう大きいわけでもなく、どちらかといえば華奢な方。……それでも、トレーニングを重ねているから実際は筋肉がすごいけれど。

だけど、順調に見えていたのに、たった一瞬。
たった一瞬で、ゲームがひっくり返った。

前半、あれだけ綺麗に決まっていたコースがことごとく返される。
頭の上を越していたロブに手が届く。
読みの逆をついてくるパッシングショット。

―――入江さんが、本気を出し始めた。

あっという間にゲームを連取され、いつの間にか逆転されていた。
6-5。このゲームを取られたら、景吾の負け。
その展開に、侑士がたまらずに叫んだ。

「跡部……このままだとあかん!ペースを戻すんや!」

「うっせぇ、黙って見てろ伊達メガネ!」

その声に即座に景吾が返してくるが、依然としてペースは入江さんにつかまれたまま。

「……アホ、こないなときまで伊達メガネ呼ばわりかい……」

くしゃり、と侑士が前髪をかきあげる。
『ペースを戻す』という、侑士にしては曖昧なアドバイスをしたのは、侑士にも何か具体的な助言が浮かばなかったからだろう。

「『絶対にエースが取れる』っていう一発があれば、流れを変えられるんだけどな……」

誰かがそう呟いた。

たとえば、リョーマのサムライドライブ、たとえば手塚くんの零式ドロップ。
1つ決まれば流れを変えることが出来る『必殺技』。

「……でも、跡部のテニスは、そーゆーんじゃないもんねぇ、

ジローちゃんの言葉に、私は微かに笑って頷いた。
その場にいた氷帝メンバー……侑士、チョタも頷く。

元々、景吾は何か特殊な技能や身体能力に秀でている選手ではない。
もちろん、すべての能力が平均よりも上であることは疑いようもないし、彼はそれを高める努力をすることもできる人だ。

だから。

「……大丈夫。景吾のテニスを進化させれば、絶対大丈夫だよ」

私の言葉に、侑士は少しの間目を瞑って、空を見上げた。

「かなわんなぁ、ホンマに……」

「ん?」

「こっちの話や……」

そう言うと、侑士が小さく息を吐いた。
吐息が白く染まる。

いつの間にか、空気は酷く冷たいものになっていた。

「……冷えてきたね」

見上げれば空を覆い尽くす、黒い雲。
合宿所がある山の中は天候が変わりやすく、頬を撫でる風は切り裂くように冷たい。

何か羽織るものを持ってこようか―――
目線を戻して、みんなにそう声をかけようかと思ったところで、誰かが声を上げた。

「―――雪だ」

言われて、再び空を見上げる。
じっと目を凝らしていると、やがてちらちらと白いカタマリが浮遊しているのが見えた。

氷の結晶が降り注ぐこの空は。
―――きっと、氷の帝王に対する、次の舞台への祝福。





『跡部王国』

まぁ、ようこっ恥ずかしい名前をつけるわー、と呆れも混じった息を吐いた。
せやけど、呆れに混じっている吐息の大半は、ヤツのプレイの進化に対する『驚嘆』に対するもの。
周りを見渡せば、俺と同様の反応をするヤツがたくさんおった。

「あれが、ちゃんの言ってた、『跡部のプレイの進化形』……」

「そのままやれば大丈夫って、こういうことか……」

プレイに圧倒されたようで、周りの奴らの雰囲気は硬く厳しいものになっとった。
ぼそぼそと呟くような小さな声が、俺の耳に届く。

けれど、隣のちゃんにはその声は届かんかったらしく、まっすぐな視線をコートから外さんかった。
それがほんの少しだけ羨ましいとか悔しいとか……そんなことを思ってしもた。

それに、さっきのちゃんのセリフ。
ジローに対するちゃんの対応は、まさしく跡部に対して……跡部のテニスに対して、全幅の信頼を寄せたもの。
見えない絆を見て―――ほんの少し胸の奥がキュッとしまる。

その痛みを誤魔化すようにして言葉を紡いだ。

「……また技にこっ恥ずかしい名前をつけて、こっ恥ずかしいセリフ吐いとるで、跡部のヤツ」

視界の端でちゃんの姿を捉えながら、コートでプレイする男を見て言うた。
そうすると、視界の端のちゃんが、一瞬虚をつかれたような顔をしてこちらを向いた。その姿を確認してから、俺もちゃんの方へ向き直る。
俺の顔を見て、ちゃんはクスクスと笑いはじめる。

「ホントだよね……景吾ってば、なんか色々センスがぶっ飛んでるよね……スケスケって……」

笑うと同時に細められる綺麗な目。
その目が俺を映していると思うと、嫉妬心を持って言葉を放った俺の心の汚ささえ見ぬかれそうで、なんだか少しへこむ。でも、ちゃんが俺のことを見ているという認識の方が勝った。

「アイツに国語能力教えた方がえぇんちゃう?」

「そうは言っても、景吾さん現国だって成績パーフェクトだもん……まったく、隙がないって困っちゃうよね」

「いやいや、隙ありまくりやろ。あのネーミングセンスとかは隙やろ」

あはは、と笑うちゃんの声に、跡部の進化に圧倒されていた周囲の雰囲気がほどけていった。

ピョンッと飛び跳ねるようにちゃんの近くにやってきたのは……立海の切原やった。

先輩、質問ッス!」

「ん?どーしたの赤也?」

「どーして跡部サンのプレイは『そのまま』で大丈夫……って思ったんスか?……いや、そのとーりになったんスけど!」

切原の言葉に、ちゃんが少し困ったように微笑んだ。
照れたような……誇らしいような、そんな気持ちが入り交じって、結局困ったような笑みになった……そんな感じやった。

「えーっとね…………景吾って、オールラウンダーじゃない?」

「そうっスね、完璧に」

「オールラウンダーってさ、つまり……特徴という特徴があるわけではないんだよね。もちろん、景吾は他の一般の中学3年生よりは平均してすべての能力に秀でていると思う。それでも、決して河村くんみたいに力が強いわけでもないし、神尾くんみたいにスピードがあるわけでもない。ジローちゃんみたいに天性の身体能力もないし、キヨや英二みたいに動体視力がものすごいわけでもない。テクニックはあるけど、それだって手塚くんにはかなわないと思う。もちろん赤也みたいなこともできない」

「でも」

ゆっくりと前を向いたちゃんは、視線をコートの中の男に向けた。
跡部が恵まれているのは、ちょっとした環境のみ。身体能力の面で言えば、跡部より優れる奴はこの合宿に何人もいる。

そんなヤツが、今、コート上に立っているのは、それなりの理由がある。

「彼は、自分にないものを求めるんじゃなくて、自分にできることをひたすら磨いてきた。できないことを嘆く時間を削って、できることを伸ばす時間に当てた。努力で彼は今の地位を手に入れた。彼が持っているのは『諦めずに努力することを惜しまない』っていう才能だと思うよ。…………だから、彼と同じ舞台に立つには、同じくらい努力しないとね」

最後の一言は、切原に言うてるよりも、小さく自分に言い聞かせるような口調やった。

そして跡部は。

―――ヤツの『諦めずに努力する』という姿勢を見せつけるかのようにボールを追いかけた後。

その全身を、壁にぶち当てた。



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