全身全霊でテニスを楽しみ、プレイをする姿。 見ていて、なぜだか泣きそうになってしまうほど、心が震える。 「……ついに、扉を開けたか」 じっとコートを見つめていると、隣から聞こえた声。 その声に混じるのは、先へと進む友人に対する、 納得、激励、嫉妬、羨望、畏怖、尊敬、 必ず追いついてみせるという―――決意。 Act.12 扉を開けた友人の、背中を押す手 「……これで手塚は、やっと手塚自身のためにプレイできるんだな」 景吾の声音には複雑な感情が入り混じっていた。 景吾自身、今、どんな感情をオモテに出せばいいのか、わかっていないのだろう。 ぽつりとつぶやいた言葉に重ねたのは―――自分の境遇。 部長という重責。 チームのためという想い。 もちろん、それが個人だけでは発揮できない力を出させたこともあっただろう。 それでも、チームのために我慢したことも、多々、あった。 その胸中をおそらく一番わかるのが―――同じ部長という立場で、チームのために自分のプレイを取捨選択したことのある、景吾だ。 複雑な表情が物語るのは―――友人の未来への希望、同志を失う辛さ、どちらだろうか。 ……それでも。 それでも、跡部景吾という人間は、他の人間のことを考えることが出来る。 氷帝のシステムのなかでは、独裁的とも取れる行動を取ることもままあるけれど、景吾は基本的に様々な思考を巡らせ、他人のことを考えることが出来る人間だ。次世代への思いもそうだし、今回のように―――ライバルのことを、思いやることも出来る。 「……さて、アイツの背中を押してくるか」 周りの人間が、手塚くんの圧倒的なプレイを見たことで動きを制御されている中、景吾がコートに向かって歩き出す。 その背中に向かって、私は思わず声をかけた。 「景吾は、いいの?……海外も、視野に入れてるんでしょ?」 私はかねてから思っていたことを、そのまま口にした。 ……さらりと言ったつもりだけど、やっぱり少し声が震えたかもしれない。 考えてはいたことだった。 もともと、景吾は海外でテニスをしていたし、今後もテニスを続けていく上では、海外での経験というのが非常に重要になる。手塚くんの行動も、そのためだ。 だからこそ、景吾が『今後は海外でテニスをする』その選択肢を持っていても、なんら不思議はない。 でも、景吾は氷帝の高等部へ進むことしか私には言わなかった。 それ以外の道は、考えていないかのように振舞っていた。 ……だけど、考えていないはずがないと、思っていた。 本当は、このことを聞くのはちょっと怖い。 もし海外へテニス留学するのであれば―――私はきっと、ついていくことができない。いや、もしかしたら景吾や跡部家パワーでさらりと手続きくらいやってくれるのかもしれないけれど……私自身の能力や覚悟が伴っていない。そんな状態でついていくことなんてできない。 でも、もちろん景吾が海外へ行くこと自体には、反対する理由もない。 だから、もし景吾が海外へ行くのではあれば―――しばらくは、離れ離れになる。それも、少し覚悟していた。 いろんな緊張が景吾に伝わったのだろう。 くしゃ、と景吾が前髪に手をやり、少し肩をすくめた。 コートに向かって歩いた分の距離を、わざわざ戻ってくる。 「……んな顔するな。キスして抱きしめてやりたくなるだろうが」 「そ、それは困ります…!」 周りは手塚くんのプレイに夢中で私達を見てはいないだろうけれど、それでも慌ててブンブンと手を振る。それを見て、景吾がクッと喉の奥で笑い―――ぐっ、と私の肩に手をまわした。引き寄せられたために、顔が近くなる。 「景吾、さん?」 「今はこれで勘弁してやる」 「えぇぇ、今は……!?」 慌てる私に、景吾はもう1度笑い―――ふと、真面目な表情になってさらに顔を寄せて、小声になった。 「……俺は日本でやり残したことがある。それを終えてから世界へ出ると決めている」 低い声が、耳を震わせる。 「手塚と同じ道を行くことがテニスをする者全ての正解じゃねぇ。手塚にとってはドイツへ行くのが最良の道であるだけで、俺の最良の道は、今のところ日本で俺のテニスをもっと磨くことだと考えている。進むルートは誰も彼もが一緒でなくていい」 景吾は淡々とそう言う。 ……簡単に言うけど、それを実行するのは並大抵のことではない。誰だって、先へ先へと進む人を見たら焦って当然で、なおかつ成功している人の後を追いかけたい、と思うだろう。 だけど、跡部景吾という人は『自分にとって、今、何が大切か』ということを常に考えて生きている。『自分のために』必要なことを考えている。 こんな人が……いるのか―――。 改めて、並外れた人間だということを、思い知った。 同時に―――景吾がすごすぎて、遠くに感じる。 ぽやーっと景吾の横顔を眺めるだけで、精一杯になった。 「……それに」 ふと、その沈黙を破って、景吾がニヤリと表情を変える。 「俺までいなくなったら、この合宿、成り立たなくなるだろ、アーン?」 自信たっぷりにそう言った景吾。 その表情はいつもの景吾で―――私はフッ…と肩の力を抜いて、笑みを浮かべた。 「………………自信過剰と言えないところが、なんとなく悔しい」 「本当のことだからな」 笑った景吾は、今度こそコートへ歩みを進めた。 友人の背中を押すために。 景吾の言葉、そしてみんなの思いを受け取った手塚くんは、さっそく合宿から離脱することを決めた。 バス停まで送る、という私の言葉に、彼は案の定首を振る。 彼の性格を考えると、もちろんその返答は予想していた。 「じゃあ、16面コートの外まで。後は、英二くんと不二くんに任せるから」 その言葉に、彼はようやく首を縦に振ってくれた。 「気をつけてね。海外生活、しばらくは大変だと思うけど……落ち着いたら、連絡くれると嬉しいな」 「あぁ、もちろんだ。……まぁ、ドイツに行くと言っても、すぐにプロ生活に入れるわけではないしな」 一緒に歩く中、ポツリ、と手塚くんが口を開いた。 その言葉に、はてなマークを浮かべた私に、手塚くんはゆっくりと説明してくれる。 「一応準備は進めていたが、住居の手配をしたり、テニススクールに受け入れ手続きをしたり……テニスが出来る環境作りを行う必要があるだろう。語学の問題もある。しばらくは行ったり来たりの生活になると思う。……それに」 ちらりと後ろを見たのは、英二くんと不二くんを見たのだろう。 「……春には必ず戻ってくる。俺は、青春学園を卒業するからな」 「……うん。じゃ、その時にでも、卒業試合やろうよ、ウチと」 「それもいいな」 「今度はウチが勝つからね」 私の言葉に、手塚くんはただ黙って頷き、足を止めた。 「……」 ……以前は名字で呼ばれていた。 でも、合宿に来てから、手塚くんは私のことを名前で呼ぶようになった。 短い間だったけれど……共通の時間を過ごした分、少しだけ、距離が縮まった。 「うん?」 「……また、会えるのを楽しみにしている。ありがとう」 手塚くんの『ありがとう』。 不覚にも、涙が滲んだ。ダメなのよ、最近涙腺がもろいのよ。 それでもグッと我慢して。 「……こちらこそ。色々とありがとう。……本当は言っちゃいけないと思うけど……やっぱり、寂しくなるよ」 本当なら、未来へと向かう人に対しては、祝福の言葉だけで送り出さなければならない。 でも、本当の気持ちは……やはり、隠すことなどできない。 けれど。 「でも……また会えるもんね」 「あぁ。……必ず、また」 微かにあげられた口角。 初めて見たその表情に、私も笑みで返した。 後は、手塚くんと苦楽を共にした彼らに任せよう。 「先に、戻ってるね」 英二と不二くんにそう言い残して、私は駆け足でコートへ向かう。 じわじわと浮かんできた涙を、見せないように。 NEXT |