ポツリ、と頬に水滴を感じて、俺は空を見上げた。

朝は晴れていたというのに、雨か?

灰色の雲が覆いつくす空。じっとりと湿った空気。

チッ、と舌打ちをして、足早に玄関に入る。

戻った、と宮田に告げれば、俺の隣を見て、怪訝そうな顔をされた。

様はご一緒じゃないのですか?』

俺の心に、空模様と同じく、暗雲が立ち込めた。



Act.22 笑を向ける、その相手は



もしかして、途中で気分が悪くなって動けないのかもしれない。
いや、もっと悪ければ、何か事件に巻き込まれたのかも―――。

事件、と己で想像して、数々の出来事が―――もはやトラウマと化している出来事が、頭の中を駆け巡る。

本当は、そんなに心配することでもないのかもしれない。
誰だって、連絡なしに帰りが遅くなる事だってあるだろう。

だが、これまでの経験が、何とも言えない『危険信号』を俺の頭に点灯させていた。

……ここのところ、すれ違いばかりで、今日は特に連絡も取れていない。
そんな中でこの出来事。……タイミングが悪すぎる。

なんにせよ、こちらから動くにはまだ早い。
というよりも、情報もない今は、動こうにも動けないのが現実だ。

家に帰ってすぐにの番号にかけたが、コール音はするものの、応答はない。

To:
Subject:どこにいる?
本文
メール見たら、すぐに連絡しろ




充電している携帯からメールを送ってみても、反応はなかった。

鳴らない携帯を見て、1つ息を吐き―――ふと思い立って、今閉じたばかりの携帯を、もう1度開く。

が帰宅する際、関わっていた人物。
―――忍足なら、何か知っているかもしれない。

一縷の希望をかけ、忍足の番号を導き出す。

数回のコール音の後。

『………………もしもし?』

静かな声が、機械越しに聞こえてきた。

「俺だ。……お前、がどこにいるか知らないか?……まだ、家に戻ってねぇ」

『…………ちゃんが?』

「あぁ。……お前が最後にと会った人間だろうと思ってかけた。……だが、その様子だと知らねぇみたいだな」

記憶を思い返してるのだろうか。
少しの、沈黙。
その後、忍足の声が静かに聞こえた。

『……悪いけど……わからんな』

「……そうか」

『……どっか、寄り道してたりするんとちゃうか?』

「……そうかもしれねぇんだが。念のため、な。……何かあったら連絡くれ」

プツリ、と電話を切り、しばらくまた、電話を見続ける。

……気にしすぎなのかもしれない。
忍足の言うとおり、どこかで寄り道しているのかもしれないし、ひょこっと今にも帰ってくるかもしれない。

だが―――。

「……クソッ」

何もないなら、それでいい。
思い過ごしなら、それで全然かまわない。

ただ、一刻も早くに会いたい。

俺が、を探す理由は、それだけで十分だった。







『ツー……ツー……ツー……』

小さな機械音を聞きながら、電話を見つめる。
しばらく画面を見つめてから、ぽちり、とボタンを押して、その音を止めた。

「…………アホやな」

小さく呟いたその言葉は、誰に向けた言葉か。
跡部か―――それとも、愚かな己自身か。

「……そない信用されてたんか、俺は」

俺の言葉を、微塵も疑っとらん。
もっと突き詰められてたら、ボロを出してしもたかもしれんのに。

「…………クッ……」

なぜか笑いがこみ上げてくる。
自嘲とも言える、笑いが。

醒めた笑いを浮かべたまま、ボタンを操作して。
電源を、切った。

―――邪魔はされとうない。

画面が黒く染まっていくのを見届けてから、ぱこん、と携帯を閉じて、ポケットにしまう。

ゆっくり息を吸う。吸った分だけ、細く長く吐き出した。

呼吸を整え―――表情を整え。

話し声がかすかに聞こえてくる、リビングのドアを、開けた。



「好きな食べモン、粕汁とサゴシキズシやで!?どこの飲んべぇやっちゅーねん!」

「の、飲んべぇって……!」

「オマケに好きな色はうぐいす色!まったく、誰に似たんだかよーわからんファッションセンスやし!!」

「……やかましいわ。オカンのファッションセンスより1億倍マシやわ」

ソッとリビングに入った俺は、ソファであらんこと言うてるオカンに突っ込みを入れた。―――いつもと変わらぬ表情で。

「やたら動物柄着よるオカンにだけは、ファッションセンスがどーのこーの言われたないわ」

「あれ、なんや、ゆー。電話終わったんか?」

俺に気付いた2人がこちらを向く。

「終わっとらんかったら来ぇへんわ」

おかんに答えた後、ちゃんの方だけ向いて、『待たせてごめんな』と言っておいた。
それを見たオカンは、ススス、とちゃんに近寄って耳打ち(っつっても、丸聞こえや)する。

「……ちゃん、きっと女の子からやで〜。まったく、こんな図体ばっかでっかいメガネのどこがえぇんかよぉわからんけど、ゆーってば不思議に女の子にモテるらしくてな〜」

「オカン!余計なこと言うなや!」

「あー、でも、確かに学校ではモテモテですよ〜」

「ホンマかぁ?まぁ、オカンに似て顔の造作は悪ぅないと思うんやけど、なんせ中身がこれやからなぁ〜……」

「オカンに似てたら、俺のお先は真っ暗やっちゅーねん。つーか、自分で言うなや、アホらしい」

「なんやて?もう1回言うてみぃ」

「なんぼでも言うたるで」

オカンと睨み合ったら、あははははっ、と明るい笑い声が響いた。
……今日初めて聞いたその声に、なんとはなしに、肩の力が抜ける。

やっぱり、ちゃんは笑っとる方がえぇ。

「い、いつもこんな調子なんですか?お、おかしすぎてお腹よじれる……!」

「いつもはこんなんちゃうで。ゆーってば最近つれないねん。あれやな、思春期ってヤツやな」

「……よーわかっとるやんか。ほんじゃ、思春期の息子は放っておいてくれんか」

「い・や・や。オカンだって、ちゃんと話したいねん。思春期の息子は、1人で拗ねてどっか行っとってくれんか」

「なんでやねん!ちゃんは俺の客やっちゅーねん!」

「侑士の客はオカンの客や。オカンがもてなさずに誰がもてなすっちゅーねん」

「俺がもてなすわ!あー、もう部屋行こか、ちゃん!」

「部屋行ってナニすんねん。……やーらしー。気ィつけや、ちゃん」

「なんもせぇへんわ!オカンが聞き耳立てる家で、ナニするっちゅーねん!」

あははははっ、とまたちゃんが笑う。
ギリギリ、とおかんを睨んどったけど、その笑い声に、どうしようもなく安心して、気が緩む俺がいた。
ちゃんが、『あー、おかしー』と、目元に浮かんだ涙を拭う。

キリ、と胸のど真ん中が微かな痛みを主張した。

……あぁ、この子の為なら。

「侑士。そんなこと言わずに、お母さんと一緒に話そーよ!」

この子の笑顔の為なら。

「……しゃーないな」

―――俺は鬼にでもなんにでもなれる。

ちゃんの言うことなら、聞いたるわ」

……そう、思った。





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