卒業論文も提出済みの、あとは卒業式を待つのみ、といった2月のある日。
のんびりと、私は景吾と一緒に過ごしていた。

景吾はテニス雑誌をソファで読んでて、私はその隣でスポーツ科学の本を読んでいた。
大学卒業後は、プロテニスプレイヤーとして活動する、景吾のトレーナーになることが決まっていた(というか、気がついたら、景吾が契約していた)
なんてことない日。
それでも、幸せが全身を包んでいた。

ふ、と景吾に寄りかかった。
それに気づいた景吾が、雑誌から目を離して私を引き寄せる。

「……どうした?あーん?」

「んー……幸せだなぁ、って……」

景吾が少し笑って、ぽん、と頭の上に手を乗っけてきた。
サラリ、と前髪をかき分けられて―――少し、表情が曇る。

「お前……熱ないか?」

「え?……んー、疲れてんのかなぁ?」

景吾の大きな手が、額を触った。
少しひんやりした手が気持ちいい。

「ちょっとあるな……休むか?」

「平気だよー、これくらい」

そうか?とまだちょっと不安げな景吾に、大丈夫だよ、ともう1度言ってくっつく。
景吾は心配性だ。

…………まぁ、確かに最近ちょっと微熱っぽいかなー、とは思ってたけど、休まなくちゃ辛い、ってほどでもないし。

一応納得したらしい景吾は、私を押しのけることもなく、またテニス雑誌を読み始める。
私もそれに少し目を通しながら、時間を過ごしていった。

んー……眠い……。
最近、眠くて仕方がない……やっぱり疲れてるのかなぁ……。
でも、もうすぐ夕飯だし、今寝ちゃってもなぁ……。

ふわ……といいにおいがした。
バターの匂い。
今日はバターライスかな……じゃあ、メインはお肉だ、と思ったときに。

急にこみ上げてきた、嘔吐感。

今での眠気はどこへやら。ガバッと立ち上がって、シャワールームへ一目散に走った。

!?」

景吾のビックリした声が聞こえたけど、ごめん、答えてる場合じゃない!
トイレにたどり着いたけど、夕食前で胃の中がからっぽだったから、吐くものは何にもなくって。
駆けつけてきた景吾が背中をさすってくれたけど、吐けなくて苦しかった。

「どうした!?大丈夫か!?」

う〜〜〜、大丈夫じゃない……!
苦しい〜……。

しばらくトイレでうずくまってると、なんとか波が収まって、ようやくしゃべれるようになる。

傍で何も言わずに、ただ背中をさすってくれていた景吾に、ありがと、と言った。

「突然、どうしたんだ?」

「……なんか、バターライスの匂い嗅いだら、急に……」

「バターライス?お前、好きじゃなかったか?」

「好き……なんだけど、なんだか急にむかっと……」

その言葉に、ふと景吾が何かを思案して、真面目な顔つきになった。
……な、何?

「……、熱っぽいのっていつからだ?」

「え?……えーっと、ちょっと前からかなぁ?」

「…………立てるか?」

「う、うん……もう大丈夫……」

景吾に手伝ってもらって、立ち上がる。
そのままソファまで連れてってもらうと、座らされた。

景吾は、私を座らせた後にクローゼットに向かい、私のコートを出して、私に着せ始めた。

「景吾?……どこか行くの?……自分で着れるよ?」

「立たなくていい。…………マフラーも、ほら」

マフラーやコート、さらにニット帽までかぶらさせられる。

「け、景吾?」

「……コート取ってくる。動くなよ」

そう念を押すと、景吾は1度自分の部屋に戻り―――1分と立たないうちに、コートを着こんで戻ってきた。

「け、景吾さん……?」

立たされて、部屋を出され。
意味がわからないけど、促されるままに玄関まで。

「景吾様、どちらへ?」

「病院に行ってくる」

「へ?け、景吾、そんな病院にいくほどのものじゃ……」

「車、すぐに出せるな?」

「はい、少々お待ちくださいませ」

玄関にあるソファにもう1度座らせられ、すぐにやってきた車に乗せられた。
あまりにも景吾が神妙な顔だったから、口を挟むことも出来ずに、あれよあれよという間に車は発進。

「暖房、もっと焚いてくれ」

大分車の中はあったかくて、コートも着込んでるのに、景吾はそんなことを運転手さんに言う。

「け、景吾……?」

、寒くないか?」

「……これだけ暖房焚いてもらったら、寒いってことはないけど……」

「ならいい」

えーっと…………景吾さんが、いつにもまして、おかしい気が……?
病院について。
事前に連絡してあったのか、なんだか偉そうな先生が出迎えてくれた。

そのまま向かった先は。

『産婦人科』

…………………………え?

「け、景吾……」

「…………身に覚えが、ありすぎるんでな」

た、確かに……遅れてるし、冷静に考えてみたら、あの症状は……そうなのかもしれない。
……って、ちょっと待って。

えぇぇぇぇえ!?

も、もしかして……おなかの中に、赤ちゃん……!?

「とりあえず、診察だ」

診察室に入り、まずは検査。
市販で売られてる、妊娠検査薬みたいなのね。

トイレに行き、検査して。

渡された問診表に記入をして。
そのままもう1度診察室へ。

「おめでとうございます、6週目ですね」

……………………………え?

あまりの驚きに、ぽかん、と口が開いてしまった。
ゆっくり頭の中でその言葉を繰り返し……隣に座ってる景吾の顔を見る。
景吾も少し呆然としてたけど……私の視線に気がつくと、笑って抱きしめてくれた。

「わっ、け、景吾!」

お、お医者さんが目の前にいるのに!

「これからつわりが酷くなってくるでしょう。匂いなどにも敏感になりやすいですし、特に空腹時には吐き気が強まることもあります。なるべく、回数を分けて物を食べるようにしてください」

半分ぼーっとしながら、お医者さん(女医さんだった)の説明を聞いていた。
あ、赤ちゃん……。
ほ、ホントにホントにおなかの中に、赤ちゃん……?

お医者さんの説明を聞き終わった後も、なんだか少し夢見心地。
ふらふらと診察室を出た瞬間。

もう1度景吾に抱きしめられた。

「…………景吾……」

「あーん?」

景吾の声を聞いて。
やっと実感が湧いてきた。
実感と共に、涙まで湧いてきた。

「……嬉しいよぉ……ッ」

「…………俺もだ」

そのまま景吾に連れられて、車に乗り込み家に帰る。
連絡が行っていたのか、玄関では満面の笑みで宮田さんを始めとする、たくさんの人が出迎えてくれた。

「おめでとうございます、景吾様、様」

なんだかみんなに祝福されるのが、嬉しくってくすぐったくって。
景吾と一緒に部屋に戻ったら、また涙が出てきそうだった。

「……なるべく目立たねぇうちに、結婚式だな」

部屋につくなり、景吾が言った言葉が唐突過ぎて。

「…………結婚?」

思わず聞き返してしまった。
なんだ?と景吾が不満そうにこっちを見てくる。

「嫌なのか?」

「やっ……あまりにも、サラッと言ったから……」

あぁ、と景吾が苦笑しながら、抱きしめてくれた。

「……、幸せにするから」

あったかい景吾の腕。
…………もう、十分幸せなんだけど。

「結婚、して欲しい」

優しい、優しい景吾の声。
答えは、1つに決まってる。

「…………ハイ」

ちゅっと軽いキスをして。

「…………これから、色々勉強しねぇとな」

「そだね……さすがに、出産の勉強はしてなかったからね……」

クスクス笑いながら、2人でベッドに座り込む。

「……でもまさか、22で子供産むとは思ってなかったよ……」

「そうか?俺としては、結構計画的だったんだが」

…………確かに、年明けごろから、景吾、避妊しなくなったよね……。
もしかして、卒業式見込んでのこと……?

「家の奴らにも、色々言っておかねぇとな」

「うん……そうだ、景吾、携帯。景吾ママたちにも知らせなきゃ」

そうだな、と景吾が出した携帯で、景吾ママの番号へ。
4コールくらいなって、すぐに出てくれた。

『景吾!?ちゃん!?元気にしてる?』

いっつもパワフルな景吾ママの声。
私たちは思わず顔を見合わせて笑ってしまった。

『どうしたの?』

「実は…………」

子供のことを話すと、景吾ママは大絶叫。近くにいたらしい景吾パパに電話を代わった。
景吾パパも興奮気味に私たちの話を聞いて。

『すぐに帰る!仕事は全てキャンセルだ!』

そんなことを叫んで、携帯を切ってしまった。
し、仕事キャンセルって……!

通話が切れた携帯を持ちながら、また2人で苦笑。

たくさんの人に祝福されて。
私たちはすごく幸せだ。

「……でも、景吾ファンはショックだろうな……」

時々、テニスの試合などがテレビで放映されるようになったので、景吾の人気はすさまじい。
熱狂的な景吾ファンもいると聞いてる。
……うわー、悲惨だった中学生時代の最初の方を思い出すわ……。

「バーカ。……お前はなんにも心配しなくていいんだよ」

ちゅっともう1度キスされた。
景吾の顔は、なんだか前と少し違ってて。

「…………そう言ってもらえると、安心できるよ、パパ?」

「安心してろ」

ぎゅーっと抱きしめられた私は。
きっと世界一の、幸せものだ。



ほどなく卒業を迎え。

『テニス界の貴公子、跡部景吾結婚!秋にはパパ!』

そんなニュースが、世間を騒がせた。



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