リターンエースを取ったとき、フェンス際にいたの目から、綺麗な雫が落ちるのが見えた。

隣にいたジローがそれに気付き、に何事かを話しかける。

…………その雫を拭うのは、俺の役目だ。

―――ジロー、お前にはまだ早ぇ……手ェ出すんじゃねぇぞ……ッ!

手塚がサーブを打つのと、ぐっ、とが涙を拭うのとが同時だった。






会場にいる全員が、コート上の2人に釘付けだった。
死闘とも呼べる戦い。
お互いの凌ぎを削って、ポイントを取り合うその姿に、誰もが時を忘れて見入った。

「…………若」

同じく、若も試合を魅入っていた人間の1人。
だけど―――。

「……えぇ。そろそろ、準備しないと、間に合いませんね……」

ラケットバッグの中から、ラケットを取り出した若は、わかっていた。

本来なら控えであるはずの自分に、試合が回ってくる可能性があるということを。

「……一緒に、行こうか……?」

「ついてきて欲しいのは山々ですが……あぁ、もう。そんな顔で何言ってるんですか。……先輩は、大人しくここで試合見ててください。でないと、後で跡部部長から何を言われるか、わかったものじゃない」

プレッシャーだってあるだろうに、若はそんな気遣いを見せてくれる。
まだ終わらせたくない。
まだ、氷帝テニス部を、終わらせたくない……っ!

「若ぃ……っ」

「泣くのはまだですよ。……まぁ、今の先輩に言っても、無駄だっていうのは、承知の上ですが」

口の端だけを上げて笑う若は、中学2年生なのにこの落ち着きっぷり。
……間違いなく、景吾の後を継ぐのはこの子だ。

「アップ、行ってきます」

「…………うん……っ」

涙で滲む視界で、若を見送った。
……この試合のラストを、見届ける。

何度も何度も湧き出てくる涙を拭いながら、試合を見続けた。
景吾の勇姿を見届ける為に。

「頑張れ……頑張れ、景吾……ッ」







―――が泣いている。


アイツは、いつも強がるくせに、泣き始めたら、こうしてボロボロ泣きやがる。
それも、自分でなく、他人のことで泣くことばかりだ。

手塚との闘いの最中にもかかわらず、頭は違うことを考えていた。

体と意識がバラバラになったような感覚。

「……ぉらぁっ!」

ほとんど、体が勝手に反応していた。
疲労はピークに達しているはずなのに、体の中に新たな息吹が吹き込まれたかのような動きが出来る。
頭で考えるよりも先に、体が動いていた。
まるで、なにかが俺の体に乗り移ってるかのように。

「…………っ……」

がこちらに向かって、なにかを小さく呟いた。
そして、またボロボロッとアイツの目から涙が溢れる。

「……ったく……はぁ!」

そんなに泣くなよ、
まだ終わってねぇだろ?

バシッと力を込めて、ボールを打ち返した。

目、ちゃんと開いて俺を見ろよ。

言っただろ?
勝つのは俺だ。
お前の前で、俺が負けるわけがねぇだろうが。

「……っ…くらえっ!」

渾身のスマッシュを叩き込んだ。

が、祈るように目を一瞬瞑った。

俯くな、前を見ろ。
―――俺は勝ってみせる。

1球1球に渾身の力を込めて、ボール打ち続けた。






――――――どれくらい、時が経ったのか、もうわからなくなっていた。
それほどまでに、試合に没頭していた。

「……っらぁっ!」

「くっ……!」

果てがないと思うほど、長く続くラリー。
すでに、こんなラリーが何度目になるかを数えるのすら、面倒になっていた。

―――先に動いたのは、手塚だった。

ふっ、とラケットヘッドが下がった。
神経を研ぎ澄ませていないと、わからないくらいの微妙な差。
それはつまり、ドロップショットの体勢。

コイツ、まだ、零式をやるだけの―――ッ!



「……ッ……景吾、取れるよッ……!」



遠くにいるはずのの声が、すぐ近くで聞こえた気がした。
の言葉を考えるより先に、足が動く。

ネットを越えたボールは、ついさっき見たものと、寸分の違いもない。

だが。

トン、と地面に落ちたボールは、先ほどとは違い、戻らず―――ほんの僅かだが、跳ねていた。


―――零式じゃねぇ……ッ!


体勢を低くして滑り込み、地面ギリギリでボールを捉えた。
ボールは俺の飛び込んできた勢いと力で、かなりのスピードで相手のコートに入る。

それにもかかわらず、手塚がそれに追いつこうとしてるのが見えた。
ダメだ、立ち上がって追いつくには、打球が早すぎる―――ッ!

まさに立ち上がろうとしたその瞬間、手塚がバックハンドでボールを打った。

パシ……ッ。

小さな、衝撃音。

立ち上がろうとした俺の前で、そのボールはネットを超えることなく―――静かに地面へ落ちた。

ボールが落ちる音さえ響くような、静寂。

――――――時が止まったかと思った。

「……ゲームセット!ウォンバイ氷帝学園跡部!ゲームカウント、7−6!」

全てを断ち切った審判の声を聞いて、俺はゆっくり立ち上がった。
手塚がネットの方へ歩いてくる。

右手で握手をして、そのままヤツの手を上に上げた。
俺が送る、最大の賛辞。
―――この、素晴らしい試合をしてくれた、アイツへの敬意を表そう。

視界の端で、がまた泣いているのが見えた。
……早く行ってやらねぇと、そろそろアイツの全ての水分が涙に変わってしまう。

「……氷帝っ!氷帝っ!!」

止まない氷帝コールの中、踵を返して、ベンチへ向かった。

コートを出たところで、が俺を待っていた。
ぽん、とその頭に手を乗せる。

「……泣くな、バカ」

もう拭うのは諦めたらしい。
の涙は、自然の法則に従って、流れるまま地面に落ちていた。

「……だってぇ〜〜〜……」

泣きながらも、が俺にタオルを渡してきた。
それを受け取って、手を引きながら近くのベンチにドカリと腰掛ける。

うっうっ……と声を殺しながら、が泣いているので肩を引き寄せた。

「……ちゃんと、勝っただろうが。笑顔の1つもねぇのかよ」

そう言っても、の泣き声は収まらない。
だが、その代わりにが動き出した。
俺の膝を、ウェットティッシュで拭き始める。――――――泣きながら。

「…………」

「うっ……ひ、膝、擦り剥けてるし……ッ……バイ菌入ったら、困る、しっ……」

嗚咽を漏らしながら、は静かに俺の膝の処置をし始めた。
膝を消毒しながら、溢れる涙を拭い、涙を拭っては、膝の消毒を続ける。

そんなの頭を、ゆっくり撫でた。

「…………お前の声、聞こえたぞ」

が、ぐいっと涙を拭いながら、不思議そうに俺を見上げた。

「……お前、『取れる』っつっただろ?」

「……聞こえ、たの……ッ?」

の目から、また新しい涙が溢れてきた。
苦笑しながら、それを掬い取る。
…………やっと、役目を果たせる。

「…………俺様が、お前の声を聞き逃すはずがねぇだろうが」

あの声がなかったら、零式だと思って諦めていたかもしれない。
だが、の声が、俺を動かした。

「お前の声が、俺を勝たせた」

手塚との勝負は、5分5分だった。どちらに勝利が転がり込んでもおかしくなかった。
それを俺に引き寄せたのは、紛れもないコイツだ。

「……違っ……景吾、がッ……頑張った……ッ……あぁ、もう〜〜〜、なんでこんなに涙が出てくるのよ〜〜〜……」

ゴシゴシ、とが涙を拭き取った。

「赤くなるぞ」

「もう……ここまで泣いたら、赤くなっても変わらない……ッ」

が走り出した。
戻ってきたの手には、俺のボトル。

「お、遅くなって、ごめん……ッ」

それを受け取って、一口飲んだ。
氷が入っているのか、冷たい液体が喉を潤す。
はまた、涙を拭った。

先輩」

日吉が、コートに立っていた。
がたたっと駆け寄っていく。
日吉はアップを終えていたのだろう、うっすらと汗をかいている。
…………いい状態だ。

「……わ、若……が、頑張……うぅ……」

俺に背を向けているから、顔は見えないが……声が詰まってるところをみると、また泣いてるのだろう。

「わかってますよ。先輩、泣きすぎですから。すごい顔ですよ」

「知ってる……ッ……」

グスグス、とが顔を拭い、呼吸を整えた。

「い、1年生だけど、気を、つけて……ッ」

「えぇ。……じゃ、行ってきます」

日吉がちらりと俺に視線を向けた。

―――何としても勝て、日吉。俺たちは、ここで終わるわけにはいかない。
に、全国を見せてやるんだ。

俺の視線を理解したかのように。

日吉が1つ、頷いた。




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