おかしいな―――。

俺は試合の最中にも関わらず、観客側へと視線を向けた。
来ているはずの、の姿が見えない。
チケットは取ってある。今日は、忍足のヤツも来ているはずだ。
……そういえば、忍足の姿も見えない。

「跡部 トゥ サーブ!」

ハッとジャッジの声で意識を試合に集中させる。
……どちらにしろ、早く試合を終わらせれば、原因がわかるだろう。

俺は、とにかく全力で目の前の相手を倒すことだけに集中した。

そんな俺に、敵うわけが無い。
ストレートで俺は、相手を下した。

……まぁ、こんなものだろう。

もう1度、観客席に目を向けたが、やはりの姿はない。

控え室に戻って、携帯に掛けてみるか―――タオルで汗を拭きながら、控え室に向かう通路へ。
通路の途中に、の代わりに臨時で雇ったトレーナーがいた。

「跡部さん……っ、さんが―――!」

その後に続いた話に、俺は、言葉を失った。





ウェアのまま、タクシーに飛び乗って病院へ向かう。


さんが、刺されたって……ッ』

その、非現実的な言葉に、『なんの冗談だ?』と言いかけて―――トレーナーの尋常じゃない様子に、頭のてっぺんから、足の先まで冷たいものが駆け抜けていった。

『本当……なのか……?』

涙ながらに頷いたトレーナー。
思わず持っていたタオルを落とした。

『忍足さんから連絡が入って……ッ……会場入り口で、刃物を持った男に、刺されたって……ッ』

『……い、つのことだ、それは!』

『試合が始まる、ちょっと前のことだそうです……さんが、跡部さんには試合が終わったら伝えろ、って言ったそうで……ッ』

『……ッ、どこの病院だ!?』


病院を聞き出すと、そのままタクシーに飛び乗った。
さっき試合を終えたばかりで、体は火照っているはずなのに、おかしなくらい指先が冷たい。
無意識に、カタカタと手が震えていた。

「……っ、もっとスピードは出せねぇのか!」

俺の声に、タクシーの運転手が小さな悲鳴を上げて、速度を上げる。
病院についたとたん、1万円札を放り投げて駆け込んだ。

「跡部……ッ、跡部、は!?」

受付でそういうと、ナースが驚愕しながら、廊下の奥を指し示した。
その方向に、走る。

緊急処置室、と書かれた部屋には、『処置中』の赤いランプがともっている。

その前の椅子に座って、祈るように手を組んでいるのは、忍足だ。
息も荒く駆けてきた俺に、忍足が目を向ける。
眼鏡の奥の瞳が、苦しげに歪んでいた。

「……跡部……ッ」

「忍足……ッ、は!?」

「……傷自体は深くないんやけど、刺された場所が、良くないねん……その上、ショックで流産しかけとるって……」

忍足の言葉が、脳内を駆け巡る。
サー……と血の気が引く音がした。

ちゃん、意識が、のうて……このままやと……母子共に、危ないって……ッ」

母子共に、危ない……?
のお腹に宿った子供。

やっと、腹が膨らんできた、と喜んでいたのは、ついこの間なのに。

忍足の隣に、ドサッと半ば崩れ落ちるように座った。

「……体力次第やて……」

「体力……次第……」

体力が尽きたら……どうなるんだ?
……が、いなくなる?

そんなことは、ありえない。
認めない。

…………ふざけるな!

「なぜっ……なぜ、が……ッ!をこんな目に合わせたヤツは、誰だ!?」

「……まだ詳しいことはわからへん……さっきちらっと警察が来たんやけど……どうも、熱狂的なお前のファンの恋人が―――……」

「なぜが傷つかなければならないっ!は……は、こんなことをされる人間じゃない……ッ……俺のファンの恋人……ッ?それならば、なぜ俺を狙わないッ…………」

俺を狙ってくれた方が、千倍も1万倍もマシだ。

「………………ッ」

祈ることしか出来ない自分が、歯がゆい。





カチコチ、と時計の針の音だけが静かに響く。
連絡を受けて、テニス部のヤツらも集まってきていた。
皆が皆、同じ思いで祈るように組まれた両手は、固まってしまったかのように動かない。

プ……ッ……

小さな音を立てて、『処置中』のランプが消えた。
ハッとして俺たちは立ち上がる。

スーッと扉が音を立てて開き、中から手術着姿の医者が出てきた。

……は……ッ?」

「ご主人様ですか?」

「そうだ……ッ」

「奥さん、頑張られましてね……なんとか、持ちこたえました……流産の方は問題ありません。ただ、思った以上に奥さんの傷が深くて……今晩が峠でしょう。……それを過ぎれば、安定すると思います」

持ちこたえた―――。

医者の声に、ガク、と全身の力が抜けた。
座り込みそうになるのを、なんとか堪える。

「……よ、かっ……た……」

岳人とジローが泣いていた。
鳳と宍戸が抱き合って喜んでいた。
日吉が、放心したように座り込んだ。
忍足が天を見上げて、なにかを呟いた。

ガラガラ、と台に乗せられて出てきた
全身につながれた管が、痛々しい。
顔色は、紙のように真っ白だ。

それでも、生きている。

は、生きている。

「あぁ――――――………」

今まで信じたことすらない、空の上にいる存在に向かって、初めて感謝の言葉を捧げた。





ICUに入ったは、穏やかに眠っているようだった。
説明しに来た医者の話では、刺された場所が数センチずれていたら、危なかったらしい。その数センチで、胎児を傷つけたり、自身の臓器を傷つけていたそうだ。
たまたま寒い日だったから厚着をしていたことも幸いした。服の厚さが、刃の進入を少しでも防ぎ、傷を浅くした。

近くにいるのが忍足でよかった。アイツがちゃんとした止血をしてくれたから、大量の血を失うこともなかったそうだ。

とにかく、小さな偶然が積もり積もって、なんとか呼び起こした奇跡。
母子共になんとかなるそうだ。

ピッ、ピッ……と規則的になる機械音。

「…………跡部、警察の人が来てる」

「……あぁ」

ガラス越しにを見ていた俺にかかる、宍戸の声。
の顔をもう1度見て、俺はICUを後にする。

廊下にある椅子に、忍足と知り合いの刑事が座っていた。

「……景吾くん、犯人が、捕まったよ」

「…………誰だ、をこんな目に合わせたのは」

「……熱狂的な君のファンが、恋人に頼んでの犯行だったらしい。……奥さんが、君の子供を宿したというニュースで、殺意が芽生えたんだと」

「…………は?」

思わず、聞き返してしまった。
―――今、なんと言った?

「大好きな君の子供を宿した、さんが憎くて仕方なかったらしい。一種の狂信的なものだな……頼む女も女だが、頼まれて犯行に及んだ男も男だ。どうやら、女を手放したくないが為に―――」

刑事の声を聞き流して、俺は椅子から立ち上がった。

「跡部?」

隣に座っていた忍足が、突然立ち上がった俺に声をかけてくる。

「どうしたん、跡部」

「………………殺す」

「は?……ちょ、ちょい待ち、跡部!」

「待てるか!……そんなくだらん理由で、はあんな目にあったんだぞ!?……その男……殺すッ」

ツカツカと歩き始めた俺を、忍足が羽交い絞めにして止めてきた。

「待ち、跡部!」

「……女を手放したくない?ふざけるなっ!そんな勝手な理由で、は死にそうになったのか!?あんなに苦しんでるのか!?……そんな男、俺が殺すッ!」

「跡部、落ち着けって!」

「離せ忍足!……ふざけるな……ッ……をあんな目に合わせた男……頼んだ女もろとも、殺す……ッ!」

「そんなんしたら、ちゃんが絶対泣くやろ!落ち着け!」

が泣く』
たったそれだけの言葉が、俺の行動を諌める。

「…………気持ちはわかる。俺かて、その男、何べん殺しても殺したりんほど憎い。……だけど、そんなんしたら、ちゃんが泣くやろ?……それにどないするん、お前。生まれてきた子供、おとん牢屋ん中とか、ありえへんで?」

生まれてくる、子供―――。
そうだ、俺は―――俺は、この手で守るものが増えた。

と、子供と。

……………守るべき存在は、今、まだここで苦しんでいる。
俺が、傍にいなくてどうするんだ。

「……ちっ、離せ……ッ」

「暴れへんやろな?」

「暴れねぇよ。……がいるところではな」

忍足が、ゆっくりと俺を解放する。
慌てて追ってきたらしい刑事に、視線を戻した。

「……悪い。……で?もちろん、その女も捕まえたんだろうな?」

「あぁ。殺人教唆の罪で、逮捕したよ。さんに非は全くないから、きっと重い刑になるだろう」

「……当たり前だ。あいつに非なんてあってたまるか」

いつだって、周りの人間が笑うことしか考えてないのに。
……ますますもって、その犯人が憎い。

だが、憎くても、後は警察に任せるしかない。
………………それとも、法で裁かれた後に、俺自らの手で裁いてやるか。

「……まぁ、今日のところはこれくらいで。また、さんが目覚めたら、改めて来させてもらうよ」

刑事に挨拶をして、ICUに戻る。
今は、ガラス越しでしか、を見ることは出来ない。
を見ていた俺に、忍足が言ってきた。

「跡部、1回着替えてきたらどうや?……お前、ウェアのままやで?」

「あぁ、そうだな……」

から、極力離れたくなかったが。
それでもさすがにウェアのままだと、体も冷える。
風邪でも引いたら、それこそに怒られるだろう。

「………………」

小さく呟いて、俺はICUを後にした。
廊下に出て、忍足と共に出口へ向かう。

「……忍足」

「ん?」

「……お前が傍にいてくれて、本当に良かった。礼を言う」

「……いや、そんな。……もうちょい俺が近くにおったら、止められたかもしれへん。……悪かったな、跡部」

「……お前の応急処置がよかった、と医者が言っていた。……と子供の命を守ったのは、お前だ。……感謝する」

「…………なんや、跡部がそう素直やと、気持ち悪いな。……でも、ほんま無事でよかったで……」

「あぁ―――…………」

がいなくなるなんて、考えられない。
…………本当に、無事でよかった。

俺は、再度天を仰いだ。



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