「お……終わらない……っ!」

「だから言っただろう、早くやれって」

「あぁぁぁぁあ……!」

8月31日、学生にとっては最終裁判の日。



Act.7 しみの後には、最大の敵



正直言って。

甘 く 見 て ま し た 。

「あぁぁ……!」

やってもやっても終わらないこの紙の束。
一心不乱になってシャーペンを動かすけど、全然進まない。終わったのは……まさしく氷山の一角。

すみません、本気になれば、ちょちょいのちょいー、とか思ってた私がバカでした。
毎年毎年同じような経験をしていたはずなのに、人間、喉もと過ぎれば熱さ忘れる……えぇ、すっかりさっぱり忘れてましたとも、この感覚!(絶叫)
何かに追われているような、切羽詰ったイヤな感覚をヒシヒシと感じながら、必死になって手を動かす。

ただの市販のドリルや教科書の問題なら卑怯な手も使えるんだけど(オイ)、氷帝の宿題は、ほとんどの科目でオリジナルプリントだから、解答なんかもちろんない。解き方から何から、全て一から始めないといけない上に、量が多い!そして、面倒くさいのが多い!今やっている英語は、一文全てを『和訳』もしくは英訳しなさい、というのだったり……とにかく面倒くさい!

今、確信を持って言うよ……先生は景吾並の眼力を持っていると思う。
生徒が嫌がるものを見抜き、そこを突くっていう眼力を!!

「This is why it is important to persuade the students to be against war. ……persuadeって何!!」

「ほら、電子辞書」

「ありがと……!」

景吾が電子辞書をぽい、と渡してくれた。それを受け取って、即座に単語の意味を調べる。すっきりさっぱり宿題を終えていらっしゃる景吾さんは、のんびり読書中。中々に厳しいので、そう簡単に宿題を見せてはくださらない……というか、絶対に『対価』を求められるので、怖くてこちらから交渉には持ち込めない……!

「Persuade……説得する……!」

カリカリカリ、と和訳をプリントに書き込んでいく。
よし、次は……『Everybody uttered that this issue should be discussed in public.』…………………

不意に、この紙の束を燃やしてしまいたい衝動に駆られた。

やり終えられないのなら、いっそ、なかったことに……!

「妙なこと考えてる暇あったら、手ェ動かせよ」

「…………ハイ」

絶妙のタイミングで思考を読んでくださった景吾さんにピシリと言われ、私はスゴスゴと大人しく電子辞書を手に取る。
っていうか、中学生の問題じゃないのよ、こんなの!参考書だって、明らかに『大学受験用』ってなってるし!もっと年齢に応じたレベルでお願いしたい……!

すでに時刻は3時のおやつの時間を過ぎている。
もちろん、のんびりティータイムを取ってる暇なんか一秒たりともない。

「え、英語は後もう少し……!頑張れ、私……!」

「他にまだあるだろ。レポートとかめんどくせぇのが」

なんとか自分を奮い立たせているというのに、景吾さんが意地悪にも本に目を向けたまま呟いた。

「とりあえず、明日提出のだけやり遂げる……!明日提出なのは、英語、化学、現代文、それに数学……だよねっ!?」

「……そーゆーとこだけはよく覚えてんな」

「任せて(キッパリ)……だから、古典プリントと、技術、政経のレポートは後回しにする……!この3つは確か最初の授業の時に提出だった……!」

無駄なことはよく覚えている自分の頭。
絶対に明日までにやらなければならないもの以外は、後回し!

最低限の算段をする私に、完璧主義の景吾が呆れたように息をついた。
それを耳では聞いたけど、あえて突っ込み返す気も時間もなく、ひたすら眼前の敵に向かっていく。気分は次々と襲い掛かってくる敵をなぎ倒す、RPGの勇者だ。

そうやって、エンドレスバトルを繰り広げてたんだけど。

ついに、限界を悟ったのは、夜10時。

この時点で、化学が残り3分の1、数学がまるっと残っている状況。
化学は終えられたとしても……苦手な数学がまるっと!!(絶叫)
苦手なものを最後に残したのは間違えた……でもでも、数学をやり終えて化学をやる気力なんて絶対ないと思ったから、数学で燃え尽きようと思ってたのよ……!

いろんなことを考えてたけど、最終的には絶対に終わらないこの現実。

いよいよ……自分だけの力では無理だと認めることになった。

今まで通常の倍以上で酷使していた右手を止める。
そして、自分の部屋で読めば良いのに、相も変わらず私の部屋で椅子に座って、のーんびり読書をなさっている景吾さんを、チラリと盗み見た。
私の視線に気付いたらしく、景吾も読んでいた本から目を上げてこちらを見て―――目が合う。

少しの間の、静寂。

―――そして、麗しきお顔が、ニヤ、と意地悪い笑顔に変わった。

「…………なんだ、どうした?」

用件なんてわかってるだろうに!!!(絶叫)

わざとなのか、やけにゆっくりとした動作で本を閉じる。それをまた、ゆっくりと机の上においてこちらへ向かってきた。
座っている私の背後から、机に手をついて手元のプリントを覗き込む。
じっ、とプリントを見て、今の状況を把握する景吾さん。

「―――こりゃ、明日までには辛ぇな、

「…………ハイ」

「化学はまだしも、苦手な数学はな……これから寝ないでやっても、疲労も溜まってるし……終わるかどうか微妙だよな」

「…………ハイ」

「というかお前、寝ないでやるとか絶対無理だろ」

「…………ハイ」

「でも、1番成績悪いの数学だから、遅延提出で更に評価下げるのもイヤだよな」

「…………ハイ」

机についていた景吾の右手が離れ―――首に絡みつく。
ドキッと跳ねた心臓に追い討ちをかけるように、身をかがめた景吾が背後から、甘く低い声を耳元に呟いた。

「…………プリント一枚で1回。どうだ?」

「そっ……明らかに不平等な取引だ!!不平等条約、反対!!!」

「そうか。じゃあ明日たっぷり数学の先生に絞られて来い」

「う……あぁぁぁ…………!」

「ちなみに……分割払いも可だ」

「……景吾、『分割払い』なんてしたことないくせに……!」

「俺はな」

緩やかに絡んでくる腕。
耳元で聞こえる凶器にもなりうる声は、ものすごく愉快そうだ。

「…………分割払いで、お願いします…………」

「……承った」

小さな声と共に、耳にやわらかいものが触れる。

「!」

それが景吾の唇だと感知するより早く、景吾がするりと離れていった。

「数学のプリント持ってくるから、化学やっておけよ。それ終わらせて、数学のプリントを写して―――12時前には、支払い始めてもらうからな」

「……あ、明日から学校だし……」

「朝練ないから、少しは寝坊出来るぜ」

「……け、景吾の方が抜け目ないじゃんか……!」

「俺様の記憶力をなめるなよ。……ほら、無駄口叩いてる暇あったら、やれ」

「うぅぅ…………ぶ、分割払いだからね……?」

「あぁ。ちゃんとカウントしておく。……分割だから、少し割り増しでな」

「!!!!あぁぁぁぁ………!」

つくづく抜け目のない景吾に、残っている宿題(古典、技術、政経)は、なにがなんでも自分の力で頑張ろうと心に決めた。





だけど数日後に待っていたのは。

「頑張ったご褒美だ。……一括払いでな」

頑張って残りの3つを自力でやり遂げた私に、ニヤリと笑いながら囁く景吾の甘い声だった……。




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