「おい、ハンス」 突然聞こえてきた声に、翌朝のための仕込みをしていた手を止めた。 厨房の入り口に立っているのは、景吾サマ。 布巾で手を拭いて、心持ち駆け足でそちらへ足を運ぶ。 「何かご用ですか?」 「……明日の夕食だが」 「はい?」 明日はどこかで食べてくるとか、そういう連絡だろうか。 次に来る言葉をある程度予測していたら―――珍しく、躊躇いがちに開かれた、若きご主人様の口から出てきた言葉は、予測なんて何も役に立たないことを教えてくれた。 「………………明日の夕食を、オムライスにしてくれ」 「……………………………………はい?」 たっぷり3秒は固まってから、やっとのことで言葉をひねり出した。 …………それほど、この若き主人の口から出てきた言葉は、似つかわしくないものだったからだ。 「…………聞こえなかったのか?あーん?」 「いえっ、き、聞こえてます……オ、オムライスですね……わかりました」 「……ならいい」 ふいっ、と身を翻して、景吾サマは厨房から離れていく。 …………なぜ彼がそんなことを言ったのか、その時は理解できなくて、呆然とするしかなかったけれど―――次の日、簡単にその謎は解けた。 「あっ、今日の夕食、オムライスだ―――!」 厨房まで響く、嬉しそうな声。 あまりにも嬉しそうな声だったから、他のシェフ仲間と共に、ひょいっと食堂を覗き込んでみた。 食堂の長いテーブルの先に、景吾サマと。 が、嬉しそうに手を合わせる。 「いっただっきまーすっ」 スプーンを手に取り、オムライスを一口頬張る。その顔に、幸せそうな笑みが広がる。 その笑顔につられるように、景吾サマが少し笑った。 「……おーいしーvv」 「……そりゃ、よかったな」 本当に幸せそうに食べる。そこまで美味しそうに食べてもらえると、作る側としても、非常に嬉しい。 他のシェフ仲間とも、思わず頷き合って笑った。 「オムライス、大好き〜!今日の化学のテストで疲れた体が癒される〜!」 ぱくぱく、と食を進める。 そこで気付いた。 ……あぁ、景吾サマはがオムライス好きだから、今日の夕食はオムライスにするように言ってきたんだ。 きっと、嫌なテストで気分が落ち込んでるだろう、を気遣って。 だけど、そんな気遣いを悟らせないよう、景吾サマは、に向かって、意地悪そうな笑みを浮かべた。 「で、テストはどうだったんだよ?」 「…………それは聞かないお約束。……あぁ、オムライスおいし〜!」 「……ったく、現金なヤツだぜ」 幸せそうに食べるを見つめる景吾サマの目は、僕たちが何年間も見てきた景吾サマの瞳の中でも、特別に優しいものだった。 「……本当に、美味そうに食うな」 「美味しいもん〜。……景吾も早く食べないと、たまご固まっちゃうよ〜?」 の言葉に、景吾サマが小さく頷いて、優雅な手つきでオムライスを取り分け、口の中に入れる。 「……ね?美味しいでしょ?」 景吾サマが咀嚼するのを待ってから、がそう聞いた。 その言葉に、景吾サマがまた、小さく笑う。 「あぁ、美味いな。…………そういえば、聞いたか?明日、歴史のテスト返ってくるってよ」 「えっ……そ、そんな……ッ!だって、昨日テストだったばっかじゃん!」 「歴史は答えがハッキリしてるからな、解答も早いんだろ」 「Noぉぉぉ……!」 「別にお前、歴史は成績悪くねぇだろうが」 「それでも、心の準備が出来てないときに返ってくるのは困るよ……!」 2人が話している間にも、どんどんお皿の上のモノはなくなっていく。 楽しそうな雰囲気に、僕らも自然と笑みがこぼれた。 幸せな食事風景。 少し前までは、見られなかった風景だ。 小さいころから景吾サマは、1人で食事をすることが多かった。 若旦那様、若奥様は、次期社長夫妻として、景吾サマが小さいころから世界中を飛びまわり―――現当主である、旦那様夫妻は、お仕事で家を空けることがほとんど(今は世界旅行に行っているし) 幼い頃から、食堂では景吾サマが1人、食事をとってらした。僕らは使用人、当然同じ席で食事はしない。 誰ともしゃべることなく、ただ黙々と食事を進める、といった様子だった。 気に入らないものには手をつけず、『美味しい』と言うこともあまりない。……まぁ、しゃべる相手がいないのだから、当たり前といえば当たり前だけれども。 それが、が来てから、変わった。 景吾サマが、食事を楽しまれるようになったのが、目に見えてわかった。 が、幸せそうに『美味しい〜』と言うと、景吾サマが少し笑う。 『よかったな』 そう言って、景吾サマも同じように食べ物を口に運ぶ。笑みを湛えたまま。 そして、その日あったことなどを、食べながら2人仲良く話すのだ。―――時折、笑い声も混じらせながら。 その、楽しそうな笑い声を聞いていると、いつの間にかお皿の中は空に。 食後の紅茶を飲んだ後、は必ず厨房に顔を出して『ご馳走様でした〜』と言って行く。その時に後ろに立っている景吾サマ。時折、『美味かった』と言ってくださるようになった。 が来てからの変化は、どれもが僕達にとっていいものばかりだ。 新しく爽快な風が吹き抜けていくような、すがすがしい変化。 今日もまた、が厨房に顔を出す。 「オムライス、美味しかったです〜。ご馳走様でした〜」 「今度は僕が、違うソースで作ってみるよ」 シェフ仲間の1人が、に向かって笑いながらそう言う。 が嬉しそうに笑った。 景吾サマはそんなを見て、小さく笑い―――僕の方を見た。 「…………ハンス、美味かった」 「ありがとうございます」 シェフとしては、これ以上の褒め言葉はない。 帽子を取って、深々と頭を下げた。 「……、行くぞ。明日は最後、ドイツ語のテストだろ?」 「うあぁぁぁぁ…………景吾ー…………」 「ヤマ1つにつき、1回キスな」 「なっ…………」 「等価交換だ。ちなみに、問題の解き方2つでも、キス1回な」 「あぁぁ……」 可愛らしい会話に、シェフの間に笑いが広がる。 きっと、近い将来、この幸せは永遠のものとなるだろう。 ……そう、願って。 僕らは今日も、シェフとしての仕事に精を出す。 NEXT |