「じゃあね、滝くん。無理しちゃダメだからね」 「あぁ、ありがとう。つき合わせて悪かった」 「いいんだよ、そんなこと」 「送っていこうか?」 「平気だよ、歩いて5分もしないから」 「そうか、じゃあな」 合宿が終わって次の日。 肘の調子が悪いという滝くんに付き添って、私は病院へ行っていた。 合宿中は準レギュの子達と一緒に練習してたんだけど、やっぱり痛んだらしく、メールが入っていた。 見てもらったら軽い炎症を起こしてるだけでよかった。 でも、もう少し遅かったら治るのが遅くなってたかもしれないって。 まったく……我慢しすぎだよねー、いくら練習休みたくないからって。 てくてくと歩いていく。 病院は跡部家から近いところにあった。この距離なら、わざわざ迎えの電話をする必要もないだろう。 角を曲がって、住宅街へ入る。 高級住宅街なので、どこも家が大きい。 大通りから1本入っただけだというのに、とても閑静だった。 ふっ、と目の前に何かが現れた。 なんだろう、と思ったら、何か布のようなもので口をふさがれる。 叫び声をあげるまもなく、私の意識は、闇に落ちていった。 Act.39 どれが正解で、不正解ですか ゆらゆらとうごめく意識。 起きなきゃ……と思うけど、体が言うことを利かない。 あれ……?私、なんで寝てるんだっけ……? 滝くんと別れて―――それから。 ハッと目が覚めた。 でも目が覚めたワリには、頭の中に霧がかかったようなだるさ。 ここは、どこ?見たこともない、白い部屋。 「お目覚めかしら、さん?」 声が、聞こえた。 女の人の、声。 カツン、というヒールの音。見たことない女の人が、腕組みをして立っていた。後ろには、SP?黒服の男の人が並んでいる。 「…………あなた、誰?」 「酷いわね、1度会っているでしょう?テレビ局のパーティーで」 テレビ局…………あぁ、あの時、景吾に話しかけていた……。 名前は……名前は、トキコさん。 「トキコ……さん?」 「思い出してくれたの。そう。別に思い出さなくてもいいのだけれど」 霧がかかっていた頭が、ようやく回転してくる。 私、なにか薬をかがされて……ここに連れてこられたんだ! 「私に何の用ですか?……警察行きますよ?」 薬嗅がせて、意識失わせて連れてくるなんて、どう考えても犯罪だ。 私はギロリと睨んだけれど、なぜだかトキコさんは、ふっと微笑んだだけだった。 「私がこれから言うことを聞いて、同じことが言えるかしら?」 「こんな方法使う人の話なんて、聞く耳は持ってな……なにするんですかっ」 ガシリ、と両手を黒服の男が掴んでくる。 なんとか手をほどこうともがくけど……ビクともしない。当たり前だ、向こうは鍛えてある体術のエキスパート。私の力が通じるわけがない。 「話は簡単よ。…………今すぐ、景吾さんの傍から離れて?」 カツン、カツン、と時子さんが寄ってくる。 私の目の前まで来ると、ぐいっと顎を持ち上げられた。 ぶんっ、と顔を振って、その手をはがす。 「なんで、あんたにそんなことを言われなくちゃ……つっ」 パンッ、と音が鳴って頬がはたかれる。 ……頬を殴られたのは、これで2度目だが、前のときより痛かった。 前に殴られたとき……冷泉院薫子は、まだ躊躇いがあったから、少し力が弱かった。 だけど。 この人、躊躇いも遠慮も何もない。力の限り、殴っている。 「口の利き方には気をつけなさい。…………よろしくて、さん」 その笑い顔に、ゾク、と背筋がこわばった。 笑ってるのに……確かに笑っているのに、目だけは妙にギラギラしていて。 ……この人…………尋常じゃない。 「あなたのことを少し調べさせてもらったわ」 どこに持っていたのか、ファイルらしきものを出す。 「―――氷帝学園中等部普通科2年、男子テニス部マネージャー、4月に行われる臨時生徒会選挙の副会長候補に選出されている。………ここまでなら、普通の生徒だわ」 選挙のことまで知っているなんて、まったくもって普通じゃない。 もう1枚、今度は違う紙を抜き取るトキコ。 「今年、2月4日に突然氷帝学園に編入。手続きなどは全て跡部家を通していて、保護者はあの跡部財閥次期社長夫妻。……書類では、氷帝学園に編入する前は、跡部家が理事を務める長野の中学にいた、ということになっているけれど―――実際、その中学に『』という生徒がいた形跡はなし。それどころか、あなたに関しては、今年の2月以前の情報が、全くと言っていいほどない」 淡々とつむがれる言葉。 どれも正確な情報で、驚きを通り越して、恐怖が心を支配する。 「不審に思って深く調査をしてみたら―――あなた、跡部家を通じて、2ヶ月前に突然戸籍が作られているわね。公には、跡部家の親戚の子となってはいるけれど」 ビクリ、と私は固まる。 な、なんでそんなこと……この人が知ってるの? 「……一体あなたは何者なの?突然、現れたとしか思えない経歴を持っているわ」 事実、私は今年の2月にこの世界に『突然』現れた存在。 2月以前の情報なんて、あるはずもない。 手の先が、冷たくなってきた。 ……この人は、一体何がしたいの? 「…………答えたくないのなら、それでもいいわ。別に、あなたの経歴を聞きたいわけではないの」 カラカラになった喉が、それでもなんとか本来の働きをしようと、ひくついた。 「……な、ら……どうして、こんなことを……?」 私のかすれた声を聞いて。 ニヤ、とトキコが真っ赤な唇の端をあげて笑った。 「さん……どこから現れたのかわからない、どこの馬の骨ともわからないあなたが、跡部家にいるのが、どれだけ大変なことか、わかっていて?」 ……大変? 訝しげな顔をした私に、トキコは追い討ちをかけるように、続ける。 「いくら跡部家だろうと、国家に関わることに手を出した―――この場合は戸籍ね―――それが知れ渡ったら、どうなるかしら?」 ―――ガツン、と頭を殴られたような衝撃。 最初のとき、戸籍をいとも簡単に作れる跡部家の力って、一体どんなものなんだろう、と思ったことがある。 でも、色々なことがあって混乱して―――そのままこの世界に馴染んでしまったから、あまり深く考えずに、流してしまった。 だけど。 ちょっと考えてみれば、すぐにそこへ行きつく。 「捏造書類……戸籍の偽造……最高のスキャンダルね……あなた1人のせいで、跡部家は破滅へと―――「やめて!」 その先を聞きたくなくて、私は思わず大声を出す。 ガタガタと……自分の体が、震えているのが、わかる。 「……さんは、景吾さんがお好きなのかしら?」 突然矛先が変わったことに、不信感を覚えてのろのろと顔を上げる。 「調べた限りでは……常にあなたは景吾さんと行動を共にしているわよね?……そこに、恋愛感情はあるの?」 「なんでそんなことを、あなたに……」 「答えなさい」 カッとトキコの目が強い力を持って私を見る。 気づかせないで。私の想いを。 言いたくない、自覚したくない。 だけど……それを、拒否することは、許されなかった。 「……ある、といったら……?」 「それならば、もっと話は早いわ」 トキコが言いたいこと、行いたいことがわからない。 どうして、それが話しに繋がるの? 「あなたがするべきことは、あなたが好きな、景吾さんのためだと思えばいいのだもの」 ニヤリ、と時子は笑うと、1枚の紙を差し出した。 「あなたがこの契約書にサインをしたら、跡部家の偽造書類の話―――すべてなかったことにしてあげるわ」 契約…………? ペラ、と目の前に出された紙に書かれているのは。 今後一切跡部と関わりを持たないこと。 氷帝学園を辞めること。 公の場に名前を出さないこと。 主にそんなことが書かれていた。 「この契約を守ってくれるなら……遠藤が、あなたの生活をすべてみるわ。どう?悪いお話じゃないと思うのだけれど」 「…………なんで……?こんな契約までして……あなたは一体、何を求めてるの……!?」 私の質問に、トキコはうっとりとした視線を天井に向けた。 「跡部景吾……美しい帝王だわ……」 真っ赤な唇が、妖艶な弧を描く。 そして、私に向けられる鋭い視線。射抜くような視線とは、こういうことを言うのか、となぜだか冷静に感じる自分がどこかにいた。 「その姿は、まさしく王の名にふさわしい……そして、そんな帝王の横に立つのにふさわしいのは……同じくらいの価値を持った人間でなければならない」 「価値…………?」 「そう。金、権力、美貌……あなた、どれか1つでも持っていて?」 黙り込むしか、なかった。 ―――私は、何も持っていない。 何一つ、景吾の隣に立つ『資格』を持っていなかった。 「それなのに、貴方は景吾さんの隣に立っていた……この世界ではね、結婚は道具よ。どれだけいい商談相手と結婚できるかが、大きな飛躍となる。それくらいは、あなたにもわかるでしょう?」 つー……っと、トキコの指が、私の顔をなぞる。 「あなたがいると起こるのは、スキャンダルだけじゃない……あなたが景吾さんの隣にいるだけで、次々に景吾さんへの……跡部財閥への良い縁談は捨てられていく……あなたも景吾さんのためを想うのだったら……わかるわよね?」 景吾のため……? それって、一体なに? テニス部のマネージャーとして精一杯頑張るってだけじゃ、ダメなんですか? 別に、私は景吾とどうこうなりたい、とは思ってない。 景吾のことは……大好きだけど。 ―――もう、認めよう。 私は、景吾のことが好きだ。 だけど、景吾に自分がつりあうだなんて、思ったことはない。 ただ、想わせて欲しかっただけなのに。 …………ただ、景吾とお別れの時が来るまで、側にいたかっただけなのに。 頭の中はグチャグチャだった。 何が起こってるのか、理解できなかった。 ただ、パニックになって涙が、溢れてきた。 「…………景吾さんのためを思えば、選ぶのなんて、たやすいでしょう?」 選ぶのなんてたやすい? どれが正解? どれが不正解? わからない。 ワカラナイ。 わからない!!! 痺れを切らしたのか、トキコが書類に私の名前を勝手に書き込む。 嫌がる私を押さえつけ、朱肉を親指につけられて押させられた。 「……これはあなたのためにも、いいことなのよ?景吾さんにこれ以上のめり込まないうちに……忘れてしまった方が、辛さが半減するでしょう……?これが、あなたにとって、正解よ」 ボロボロと涙が溢れてきた。 何が正解で、何が間違ってるかなんて、わからない。 そんなことより―――みんなと一緒にいたい。 跡部家にいたい。 ……………景吾と、いたい。 「あなたがもし契約を破ったら―――跡部家は、どうなることかしらね?」 クスリと笑った目に、狂気の光。 ―――狂っていると思った。 私が景吾から離れなければ。 この人は、景吾に―――跡部家に、なにをするかわからない。 私がこの世界に来て、2ヶ月。 跡部家の人たちは、とても良くしてくれた。 景吾ママ、景吾パパ、宮田さん、大友さん、ハンス―――。 世界と家族をいっぺんに失った私に、彼らが与えてくれたものは、とても大きかった。 跡部家を。 景吾を守るために。 …………私が、取れる行動は? ――――――それが、正解? 「……離れた場所に、マンションを用意してあるわ。今からそこへ向かってもらいます。氷帝学園には、こちらから退学届を出しておくわ。あなたはそっと消えるだけでいい」 ぐいっ、とSPに腕をつかまれ立たされる。 涙が、ぱっと宙へ散った。 強引に歩くことを促されながら、私は悠然と笑い続ける人物に向って、投げかけた。 「時子さん……」 「……なにかしら?」 「私が……私が景吾から離れるのは、私のためじゃない………」 握りしめた拳は、決して緩めない。 この手に感じた、確かなぬくもり。―――二度と触れることのできない、愛しい温度。 「……景吾の、ためだよ」 「…………………………」 誇りを持って、それだけは、言える。 「―――景吾が、好きだった。きっと、ずっとずっと好きだった。だけど……私は。……私は、自分が景吾につりあうだなんて思ったことは1度もない……!」 景吾の隣に立つには、私はあまりにも何も持っていなかった。 だから、想いを封印してた。 やがて消えさせなければならない想い。 自覚して、膨らむのを防ぐために、ずっと気づかないフリをしようと決めていた想い。 それを認めさせたのは、他ならぬこの女。 金も権力も持っている。 景吾の隣に立つのに、ふさわしいもののいくつかを確かにこの人は持っているだろう。 「……だけど……だけど、人の心がわからないあなたも、景吾につりあうだなんて、私は決して思わない……!」 パンッとまた乾いた音が響いた。 どれだけ殴られようと、構わない。 それでも私は認めない。 景吾の隣に立つ人は、景吾と同じくらい優しくて。 景吾と同じくらい、人の心がわかる人でなければ、ならない。 涙を流したまま、私はトキコを睨んだ。 SPに強引に歩かされて、車に乗せられる。 車が走り出してすぐに、ブー……ブー……と震動音が鳴った。 ポケットに入っていた携帯だった。 景吾が買ってくれた携帯。 安いのでいいって言ったのに、結局1番最新の機種を買ってくれた。 携帯を取り上げようと、SPが手を伸ばす。 「…………後で、渡します。…………寄りたいところがあるんですけど、いいですか……?」 「だが……」 「跡部家ではありません。……友達に、お別れを言わせてください」 「…………1軒だけなら、許可しよう」 SPのトップらしき人が、そう言った。 この人たちも人間だ。 最後の最後で、同情してくれたのかもしれない。 行き先を言うと、すぐに連れて行ってくれた。 「5分、時間を与える」 車を下ろされて、そう言われた。 私は携帯を取り出して、電源を入れる。 『侑士』 ディスプレイに名前を呼び出し、通話ボタンを押した。 4回ほどコール音がして、侑士の声。 『ちゃん?どないしたん、電話なんて珍しいな』 「今ね、侑士の家の前にいるんだ」 『ブツッ』 電話が切れた。と同時に、家の中から聞こえてくるドタドタドタ、という大きな音。 バンッと壊れそうな音を立てて扉が開き、侑士が息を切らせながら出てきてくれた。 「ちゃん!?どないしたん、こんな遅くに……!あぁ、そんな薄着で……寒いやろ?中入り?」 ふるふると顔を振って、少し、ほほ笑んだ。 ―――泣きたかった。叫びたかった。縋りたかった。 でも、柱の影にはSPもいる。迂闊なことは、言えない。 「侑士……数学教えてくれて、ありがとね?」 「ちゃん?」 「侑士と隣の席で、すごく楽しかった。毎日、笑ってられた。…………ありがとう。みんなにも、伝えておいて?」 「なに……言っとるん?」 侑士の顔が、みるみる曇っていく。 私はそれが見たくなくて、ただ最後の強がりで微笑むことしかできなかった。 笑ったはずなのに、侑士の顔は歪んでいって。 耐えきれなくなったように、ガッと私の両肩を掴んだ。 「……何言っとるん!?そんな、別れの挨拶みたいなこと、言わんとき!跡部は……跡部はどないしたんや!」 ズキン、と心が痛んだ。 景吾の名前を聞くだけで、心が音を立てて壊れていく。 「景吾には……もう、会えないから…………」 「……なんでや!?会えるやないか!ちゃん、いつだって会えるやないか!?」 「侑士」 肩を掴む、侑士の手を握る。 景吾よりも少し大きいその手は温かかった。 笑顔で。 私の最後の顔が、笑顔で記憶されるように。 精一杯、微笑んだ。 「…………ごめん、ありがとう」 涙が出る前に、最後の、一言を。 「……サヨナラ」 「ちゃん!」 SPの人が、私を連れに来た。 引き込まれるようにして、車に乗せられる。 大きな音を立てて扉が閉まった瞬間、ぷつりと音を立てて、私の中のなにかが切れた。 「うぁ…………うあぁぁぁぁぁぁ!!!」 堰を切ったように溢れてくる、涙。 SPの人がいるけど、構わなかった。 もう会えない。 一緒にいられない。 ――――――笑えない。 先ほど侑士に触れた手を、握り締めた。 景吾、侑士、がっくん、ジローちゃん……いろんな人に、触れた、手。 ぬくもりを、思い出すように。 握りしめた。 ぶつりと嫌な音を立てて、爪が肌に食い込む。 流れてきた血なんて、関係ない。 ―――心が、引き千切られそうだった。 NEXT |