朝起きても、景吾は家に戻っていなかった。

『夜遅くなったので、相手の方のお屋敷にお泊りになるとご連絡がありました』

からっぽの景吾の部屋の前で立ち尽くしていると、宮田さんが、そう教えてくれた。



Act.19 この間だけは、アイツの代わりに



「ありがとうございました」

運転手さんにお礼を言って、1人下駄箱に向かう。

ー!っはよー!」

ドーンッ、と腰のあたりに衝撃。
顔を後ろに向けてみたら、さらさら見えるおかっぱの髪。

「おはよー、がっくん」

そう返事を返すと、ニカッ、と歯を見せてがっくんは笑い―――すぐにバッと離れて身構えた。
辺りを警戒するように、キョロキョロと周りを見回す。

「……あれ?」

「…………どしたの?」

肉食獣を警戒する小動物のようで、ものっすごい可愛いんだけども……はっきり言って、その行動はかなりアヤシイ。

「…………いつもならここで跡部が…………あれ?跡部は?そーいやいねーじゃん」

「…………えーっとね、今日は一緒に来なかったんだ」

なんと説明していいのかわからないので、省いてしまった。
がっくんは、ふーん、と頷くと、妙な行動をやめて側に寄ってきた。

「……なら、教室まで2人だな!今日は朝からついてるぜー」

さっきと同じがっくんの笑顔に、沈んでいた心が少し、浮上した。

「うん、私も、がっくんに会えたからついてるなー!」

靴を履き替え、2人で教室に向かう。途中、がっくんが昨日あった面白い話をしてくれたので、笑いっぱなしであっという間に教室についた。

「んじゃーなー」

わざわざA組まで送ってくれたがっくんが、ヒラヒラと手を振りながら自分のクラスへ向かっていく。

「おはよー」

ドアを開け、挨拶をしながら入っていくと。

ばばばっ。

ものすごい視線が集中してきた。

………………なに?

一瞬その視線の多さにたじろいだ。
けど、一旦ドアを開けてしまった以上、『失礼しましたー』と閉めるわけにもいかない。
視線の意味を感じ取れないまま、そろそろと自分の席へ向かう。

ちゃん」

「あ、侑士。おはよー」

「おはよーさん」

侑士も、挨拶を交わした後きょろきょろっ、と私の周りを見る。

「…………?侑士……私になんかついてます?」

「……なんもついとらんから、不思議がっとんのや」

「へ?」

「……ちゃん、跡部はどないした?」

侑士の顔が、険しい。
こんなに険しい表情をする侑士は、珍しいから……ちょっと怖い、とさえ感じるくらいだ。

そんなに私と景吾が一緒にいないのと、目立つのだろうか。
がっくんに引き続き、早くも今日2回目の質問に、どう答えようか迷い―――結局、また省いてしまった。

「……えーっと、今日は一緒に来てないんだ」

「なして?」

いつもはわりとこーゆーことは流す侑士の突っ込んだ質問に、少し驚く。
だけど驚きと共に、徐々にわけのわからない不安が募ってきた。
なんだろう……と思いながら、頭の中で状況を整理して返答した。

「景吾、昨日知り合いのパーティーに出席して、夜遅くなっちゃったからそっちの方に泊まったんだ。だから―――」

そこで、侑士の表情がさらに険しくなったので、答えを中断した。
侑士が大きく息を吐きだす。

「さよか。……ちゃん、ちょおめんどいことになるかもしれんけど、気にせんときな」

「え?」

「……いや、もうなっとるか」

この時はわからなかった侑士の言葉の意味を理解するのに、1時間も必要としなかった。






「昨日のパーティーでさぁ……」

「うんうん、うちも親が出席したから聞いた!ホントなのかなぁ〜」

「……でも、最近確かに一緒にいるし」

「あ、なんだか昨日は泊まってったって話も……」

「え、それって……しかも、今日2人とも」

「……来てないよね」

朝から繰り返される噂に、疲労度は半端じゃなかった。
聞こえてくる噂は、やけに心を消耗する。

噂というものは、元来広まるのが非常に早い。
だけど今回、その速度が尋常じゃないのは……噂になる当人の目立ち具合と、そこに、噂になるほどの『事実』が含まれているからだ。

私は、目の前の空席を見て、小さく息を吐き出した。
……景吾は、学校に来ていなかった。

そして。

器械体操部の部長―――千間寺さんも。

段々と、状況が読めてきた。

昨日景吾が言っていた『知人のパーティー』というのは、どうやら千間寺さんのパーティーだったらしいということ。

景吾が泊まったのは千間寺さんの家だと言うこと。

今日は2人揃って学校に来ていないということ。

そして。

―――昨日のパーティーで、2人がずっと一緒にいた、ということ。

頭の中が混乱していて、誰になんの疑問をぶつけたらいいのかもわからない。
ただぼーっと席に座って、耳に届いてくる噂が、聞こえないフリをするので精一杯だった。

噂は噂。
景吾から何かを聞くまでは、信じない。

余裕持って、どっしり構えてよう。

…………そう思うのだけど、実際はそんなこと、できやしない。

パコン、と携帯を開いても、なんの変化もない。

……せめて、連絡の1つもくれたら、安心できるのに。
落ち着かない気持ちのやり場を探しながら過ごした、昼までの時間は、とても長かった。

お昼になっても、景吾と千間寺さんは学校に現れない。
だから、お弁当は侑士と2人で食べた。
侑士は何もないかのように、運動会の打ち合わせなどをしてくれたから、少しだけ気が紛れて楽になった。

お弁当を食べ終わっても現れない景吾に―――いよいよ、クラス中の興味の目が、私に向いてきた。

気にしないフリをして侑士と打ち合わせを続けてきたけど……その目にもう耐え切れなくて。

ガタンッ。

わざと音を立てて、椅子から立ちあがった。
ビクリッ、と周りの人が反応し、一瞬教室内が静まり返る。

「……侑士、ごめん。ちょっと屋上行ってくる」

かろうじて残っていた笑みの欠片を総動員して表情を作り、私は侑士の返答を待てずに、教室を足早に出た。
休み時間は相変わらず人で溢れている廊下を、かき分けるようにして前へ進む。
廊下を歩いても、興味津々の目を向けられて、イヤだった。

屋上へと続く階段に差し掛かったとき、ざわっ、と辺りがざわついたのを感じて、足を止める。

「――――――っ…………」

無意識にセンサーでも働いているのだろうか。

ただ単に見渡した人ごみの中で、景吾を見つけるのに3秒とかからなかった。

そう。

景吾の姿を見つけたのだ。
人ごみの中で千間寺さんとカバンを持って歩いてくる、景吾の姿を。

私に向けられていた興味の目は、一気にそちらに集中していた。
その視線を浴びている景吾は、不機嫌そうに眉を潜めて、千間寺さんと話しながら、歩いてくる。
―――私にはまったく気付いていない。

ちゃん!」

私を呼ぶ声が、教室の方から追いかけてきた。
ふっ、とその声に意識を取り戻し、身を翻す。

一瞬景吾が辺りを見回したような気がしたけど、それすら確認せずにその場を離れて、屋上へ続く階段を駆け上がった。

勢いよくドアを開閉し、ドアを背後にして2、3歩進んだ。

その場で大きく深呼吸する。

力いっぱい息を吐き出したところで、閉めたばかりのドアが、結構な勢いで開かれる気配がした。

「………………ちゃん……ッ」

「…………ゆーし?」

聞こえた声にゆっくりと振り返ると、侑士がドアの前に立っていた。

「……ごめんね、ちょっと外の空気吸いたかっただけだから」

そう言って笑おうとしたんだけど。
自分でも、へにゃり、と笑顔未満の変な顔になってしまったのがわかった。

侑士の顔が、曇る。

「…………ちゃん」

「……あー、やだなー、もー。侑士には変なトコ見せてばっかりだ」

あの春の日も、そうだった。
どうにもならなくて侑士の家に行って―――でも、あの時は、ちゃんと笑えたんだ。

あの時よりも……心は、強くなってるはず。
出来ないわけが、ないんだ。

「……だいじょーぶ。だいじょーぶだよ、侑士」

もう1度。
今度はちゃんと笑おうと試みる。

「―――ちゃん」

試みたのに―――いつの間にか、侑士の姿が、滲んで。

頬を、熱い水滴が流れ落ちる感覚。

泣きたくない。
見られたくない。

慌てて、目に手をやって、涙を拭い去った。

だけど、堰を切ったようにあふれ出てくる。

ぽん、と頭に手が乗っかり―――そのまま……ゆっくりと引き寄せられた。

「……ゆ……し……?」

ゆるやかに、頭を撫でられる。
涙が侑士のシャツにどんどん染みこんでいく。

「……今だけや。……そやろ?」

「…………ご、め……っ……」



心が強くなったなんて、所詮は思い込みで。

もしかしたら、大事なものを手にした私は、



ずっとずっと、弱くなっていたのかもしれなかった。




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