明後日でちょうど1年。 ―――が来てから、もう1年になる。 だけど、まだ1年、だ。 Act.52 歩き続けるための、決断 あっという間の、1年だった。もう、ずいぶん長いこと、側にがいるように感じていた。 ふと、 「去年のあのときは―――」 と言ったその時、もその場にいたような気がしていた。 それでも「あはは、去年のその時、私まだいなかったよー」と言うの一言で、あれ?と皆で思い返したものだった。 それが、明後日で1年。 ……その1日が、どういう日になるのか。 俺自身にも想像はつかなかった。 も普段通りで、そんなことを話題に出さなかった。……いや、正確にはが「普段通り」を装っているのだろう、ということは見てとれた。 だから――― 俺も普段通りに、の部屋に行ったんだ。 部屋に入ってみて、すぐにがいないことに気付いた。夕食後、ハンスのところにでも行っているのだろう。 部屋の主を待つか―――、とゆっくり中へ歩みを進め、俺は見なれないものが机の上に広がっていることに気付いた。 電車の乗り換え方法に―――地図。 地図はこの近辺のものではなかった。だが……ぽつりぽつりと過去を口にするようになったから聞いたことのある、地名が載っていた。 その地図を手にとって見ていると、タイミング良く―――なのか悪くなのか、ガチャリとドアが開く。 「あ、景吾」 部屋の主は俺の名前を呼び―――俺が手にしている物を見て、表情を少し強張らせた。 それでも。 きゅっ、と唇を引き結ぶと、こちらに向かってきた。 「……この地図、見た?」 「……あぁ」 なんとなく後ろめたい気がして、地図を机に置こうとする。 ……それをが制して、逆にその地図を広げた。 「……ここ」 地図の中の一点をさして、が呟く。 「ここ、ね。私が元いた世界で、住んでいた場所なんだ」 「…………そうか」 一言、返す。 ―――それ以上、言う言葉が出てこなかった。 俺の言葉を聞いて、は地図を机の上に置いた。 そしてほんの少しの静寂の後―――口を開いた。 「あの、ね……私が来てから、ちょうど1年だし」 コクリ、とそこで一回息を呑む。 まっすぐな瞳が、俺を、捉える。 「…………いい機会だから、私が元の世界で住んでいたところを、見てきたいんだ」 「―――そうか」 「……調べてみたら、ちゃんと元の最寄り駅もあるみたいだし」 そこで言葉を止めて、は少し困ったように微笑んだ。 なぜだか胸をつかまれたように切なさが募る。 いつもよりも、柔らかく。 壊れ物を扱うように、そっと抱き締めた。 「…………1人で、行く気なんだな?」 「……うん。色々見て回ろうかと思ってるし。明日、ちょうど1日休みだから……」 「いい機会だな。……1日ゆっくり、見てこい」 がふわりときれいな笑顔で頷いた。 朝食を食べ、車に乗って東京駅へ。 ざわめく駅の構内をかいくぐるようにを導く。 「ありがと、わざわざ駅まで送ってくれて。……じゃ、行ってくるね」 「あぁ、気をつけて行けよ。何かあったら、連絡しろ。……帰りも、迎えに来るからメールなり電話なり、入れろ」 「……優しいねぇ、景吾さん」 「……当たり前だろ、あーん?」 俺の返答に、がニコリと笑う。 改札を通った後しばらくして、1度はこちらを振り向く。 ヒラヒラと手を振ってくるので、軽く手を挙げて答えた。……今まであまりしたことのない仕草に、少しだけ不思議な感覚。 エスカレーターに乗って俺の視界から消えるまで、の後姿を見届けた。 そこでようやくため込んでいた息をゆっくり吐き出す。 ―――今日は長い一日になりそうだな。 にとっても……俺にとっても。 家に戻っても、なんとなく落ち着かなかった。 考える隙があればのことを思ってしまうので、集中して一気に物事を進める。……そうしたら、いつの間にか全てのことが終わっていた。この時期は、ほとんど授業も自習ばかりだ。外部受験をする人間のためにも、課題はそう多くはない。 いつもはなんだかんだとやることがあるのに、こういうときに限って……。 結局持て余した時間を使おうと本を手にとってみたものの―――文字は目に映るだけ。 もう、頭の中はのことでいっぱいだった。 「…………ちっ」 舌打ちをして、本を閉じる。 ふっと外を見れば、日暮れが早い冬。もう夕景色だった。 パソコンを立ち上げる。 から聞いた、の『いた場所』。 ネットを開いてその地名を打ち込み、検索をかけた。 しばらくその情報を見て―――がどこへ向かったのか、どんな場所にいたのか……知識を、頭に取り込む。先ほどの本とは打って変わって、すんなりと頭の中に入ってくる情報。 ここにいたは、どんなことを思っていたのだろう。 何を思って生活していた? どんなヤツと一緒にいたんだ? 俺は―――本の中の登場人物だった、と言っていた。 最初は信じられなかった。それでも、一緒に過ごすうちに、すぐに『嘘』ではないとわかった。 驚くほどは俺のことを熟知している。もちろん本からの情報に制限はあるから、知らない部分も多々あった。それでも……最初からは俺のことを『知っていた』。 このことが、俺に『もっと昔からと一緒にいた』という感覚を埋め込んでいるのかもしれない。俺の過去をまるで見てきたように―――共有しているから。他の人間では別だが、が俺の過去を知っていることに、驚くほど抵抗感や不快感は覚えなかった。 だが、俺はのことを―――が知る俺に関する知識より多いものを、知るはずもない。 俺が知らない過去。俺の知らない場所でのの生活。 が俺を認識していたという年月、俺はを知りすらしなかった。は過去をあまり言いたがらないから、この世界に来てからの生活以外、俺が知るのことは実は少ない。 ……もちろん、こんなことを考えるのなんて無意味なことは重々承知している。 それでも。 ……子供じみた『感情』や『独占欲』が、心に湧き出る。 の全てが知りたい。 どんな風に『』という人間は作られたのか。 どんな場所で何を考え、どのように暮らしてきたのか。 誰と―――どんな時を過ごしていた? ―――に会いたくて、たまらなくなった。 もっと話して、知りたい。 今まで聞けなかったこと。 ……聞きたくても、あまり触れられなかったこと。 『』が違う世界で過ごしてきた18年分の軌跡を、知りたい。 今日はの意思を、思いを尊重しようと思っていた。 だが。 ―――抑えられない。 堪らず携帯を手に取り、一番大事な番号を導き出す。 何度かコール音が鳴った後、 小さな電子音と共に、聞きたかった声が、耳を撫でる。 『……もしもし、景吾?』 「…………あぁ、俺だ。……どうだ?」 声が聞けた嬉しさと、の意志を邪魔してしまった、という少しの罪悪感。 だが、それも、一瞬で消えた。 『…………うん。…………なかったよ』 いつもと同じ声のトーンで。普通のことのようには、言った。 『……途中までは、一緒だったんだけどなぁ……公園も、ご近所の家も一緒だったけど……私の家も、近所に住んでる人も……みんな、違った』 ぽつりぽつり、と言うその声はいつもと同じようだったけれど。 悲しげな響きと―――あいつには珍しい『諦め』を含んでいた。 それが、俺の心臓を、締め付ける。 「…………お前、今、どこにいるんだ?」 『近所の、公園。……何1つ、変わってないんだ、ココ』 「すぐに行く」 『……え?ちょ、景吾?』 「近くまで行ったら連絡する。寒いだろうが、どこか店にでも入って少しだけ待ってろ」 帰りは駅まで迎えに行くつもりだった。 迎えに行く場所が、変わっただけのことだ。 「―――っ」 白い息が、宙に霧散する。 結局待ち合わせ場所は、が言っていた公園。 人気のない公園のベンチに1人座っていたは、こちらに気づくとゆっくりと微笑んだ。 「……もう、景吾ってば急に来るっていうんだもん、ビックリした。にしても、来るの早いよ」 いつもと同じように言うは、俺と同じように白い息を吐いている。 「ありとあらゆる交通手段を利用した。……こんな寒い中、待たせるわけにいかねぇだろ」 夕景色はもう夜景に。 冷え切ったの体にぬくもりを移すように抱きしめた。 珍しく、抱き返してくる強い力。 ―――堪らなくなって、それ以上の力で、抱きしめた。 しばらくそうしていた後、ふっとが体を離し、あたりをゆっくり見まわした。 「……この公園でね、友達とよく遊んだり、散歩に来たりしてたんだ」 ―――は、俺の知らない時の話を、ぽつりと呟いた。 「……残酷、だよね。ほとんど同じような景色で期待させといて、さ……私の家だった場所には全然違う人が暮らしてて。……この公園も、私『は』知っている場所だけど、私『を』知っている場所じゃない」 ……もう、泣いたのだろうか。 それとも、泣くのを堪えているのだろうか。 の目には、今、涙は浮かんでいなくて。 暗いから、目が赤いのかどうかもわからなくて。 それがよりいっそう、 ―――俺を、切ない気持ちにさせた。 かける言葉が、見つからなかった。 「……でも、同じじゃなくてよかったよ」 呟く言葉と共に、真っ白な吐息が零れる。 「……?」 「……もしも、家まで同じだったら……多分、苦しすぎる。同じ家なのに―――私の帰る場所ではないもの。私の帰る場所は―――」 そこまで言って、は言葉を紡ぐのをやめた。 が呑みこんだ言葉。 俺には想像がついている。……それでも、それを言ったら傷つくのはじゃない、俺だと、こいつは知っているから。 だから……呑みこんだ。 「…………お前の、帰る場所は、俺の家……お前の家、だろ?」 「……景吾」 「この世界でお前が帰る場所―――それは、俺のところだ。……そうだろうが?」 俺の言葉に、は目をいつもより大きく見開いて俺の顔をじっと見ていた。 …………その目が、柔らかく、歪む。 「……うん。……そうだね、景吾」 揺れた瞳から、涙が、溢れた。 「…………さぁ、帰るぞ」 「……うん。……うん、景吾。……帰ろ」 小さく震えながら抱きついてきたの体を、 俺は過去ごと抱きしめた。 NEXT |