静まり返った校舎。 時折、壁を通り抜けて聞こえる先生の声。 時は止まることもなく、等しく流れていく。 また、新たな日常が始まるんだ。 ……部活がなくなった、日常が。 授業中だからだろう。いつものにぎやかさからは考えられないほどの静かな校舎を、私は1人、歩いていた。 氷帝はお金持ち学校だから、全教室にクーラーがついている。この暑い時期にはどの教室もクーラーをかけているのだろう。ドアというドアが全部閉め切られていた。 閉め切っているから、廊下がこんなにも静かなのだ。音といえば、声が大きいと評判の先生の声だけ。それも微かに聞こえるのみ。 キュッ……キュッ……。 その中で響く、上履きと廊下がこすれあう音。 いつもはたくさんの生徒でざわついている廊下では、聞き取ることの出来ない音だ。 なんだか少し悲しげなそれが、ゆっくりと進む私についてくる。 階段を上り、3年の階までやってきた。 そこからさらに数十歩歩いて―――A組の扉に、たどり着く。 微かに聞こえる先生の声。 スゥ、と一度息を大きく吸い込み、吐き出した。 ぐっ、と体に力を入れた。 扉に手をかけ、ゆっくりと開ける。それでも、ガラガラという特有の音が発された。 ドアを開けた瞬間、一斉にクラスメイトの視線がこちらに向いた。 静かな授業の中での唐突な音の正体に、みんなが集中していた。 それは、窓際に座っている人も、例外ではなく。 少し驚いたように目を見開いた人物は、目が合うと、やがて小さく微笑んでくれた。 それを見た私も、ゆっくりと微笑む。 ―――大丈夫だ。 「……おはよう、ございます。遅くなりました」 教壇に立っている先生に小さく頭を下げて、自分の席へ向かう。 歩いている途中に、自然と授業が再開された。 窓際の一番端、自分の席について荷物を下ろし、静かに席につくと。 「……早かったな」 先ほど、目が合った人物が振り返ってきた。 うん、と返事をしながら、授業に使うもの一式を取り出す。 「メール見て、すぐ支度したから。…………あんなメールもらったら、来ないわけにいかないよ」 嬉しすぎて泣いたのは、秘密だ。 パラ、とノートを開くと同時に、景吾が『そうか』と少し笑いながら呟いた。 「ちゃん、おはようさん」 「侑士、おはよう。メール、ありがとね!元気出た!」 そういうと。 ……侑士が見ている人間が腰砕けになるくらいの笑顔を見せてくれた。 「……そーか。ほならよかったわ」 「あ、う、うん……」 バクバクと早鐘をうつ心臓の辺りを押さえて、授業に戻ろうとすると。 「あ、ちゃん、ノート見るか?途中からやと板書しづらいやろ」 「え?ホント?助かるよ、ありがとう〜」 ありがたい申し出に感謝の意を表すと、侑士が少し動きを止めた。 「……あかん、今の笑顔は不意打ちや……」 「え?」 「いや、こっちの話。……はい、これな。それから、数学のノートは「数学のノートは俺様がきっちり取ってあるから安心しろ」 くるっ、と振り返ってきた景吾さんが、侑士の言葉をさえぎった。 「〜〜〜なんやねん、跡部!俺がちゃんにノート見せるんや!今日の数学のノートは、俺の人生で、史上最高の美しさと完璧さを兼ね備えてるんやで!?」 「ハッ……貴様のつまんねぇ人生の史上最高なんて、たかが知れてんじゃねぇのか、あーん?……俺様のノートの方がよっぽど美しいし、なにより、家でも写せるって利点があるんだよ、バーカ」 「そんなん、俺かてノート貸し出ししたるわ!」 「ノートだけで伝わらねぇ部分だってあるだろうが。……その点、俺様なら手取り足取り教えてやれるからな」 「自分が言うと、なんや違う意味に聞こえんねん、このアホクロ!(アホ+ホクロ)」 「はぁ?意味わかんねぇ、とうとう頭でも沸いたか。あぁ、沸いてんな。、こんなの相手にするだけ無駄だ無駄。綺麗なノートっつーのも、テメェの脳内妄想なんじゃねぇのか?妄想メガネ」 「なんやと!?そーゆー自分かて」 「あの、二人とも!」 段々ヒートアップしてきた二人の言い合いに、思い切って口を挟む。 ……というか、口を挟まなければならない状況だ、これは。 最初はこっちに気づいてくれるか心配してたけど、二人の目が一気にこちらを向いて、それはそれでまたビックリした。 「どうした?」「どないしたん?ちゃん」 ぴったり揃った声に、また2人がムッと顔をしかめた。 2人の口が開く前に、慌てて私は言葉を発する。 「…………みんなの視線が―――」 A組名物、テニス部美形の2人の言い争いは、半端なく目立つ。 授業中にもかかわらず(いや、むしろ授業中だから?)、教室中の視線を一心に浴びていた。 先生を含めた人間の視線が注がれていることに気づいたらしい、2人。 …………景吾はちっ、と舌打ちをして。 侑士は、微かに苦笑して先生に軽く頭を下げた。 やがて、授業が再開される。 思わず、小さく笑ってしまった私を、前と横から小突く手が伸ばされた。 「―――!」 バンッ、と激しい音が鳴ったかと思ったら、もうがっくんが目の前に現れていた。 自慢のサラサラミソカットが、ほんの少し乱れている。でも、それもすぐ、その素晴らしい髪質のせいで元に戻った。 「おはよ、がっくん」 「おうっ!おはよ!」 「岳人……もーちょい静かに来れんのか、自分?」 「うっせー、侑士!さっき裏切ったヤツの言葉なんて、聞きたくねぇよーだっ」 「まーだ、メールのこと根に持っとんのかい……ホンマ、ガキやなぁ〜」 「クソクソ侑士!」 ペシペシ、と侑士に頭を叩かれているがっくんは、いつもどおりだった。 なんだかそれが妙に嬉しくて。 「……さっきの授業中、が来たの見えたから、授業抜け出してこようかと思ったぜ!」 「がっくんてば、もう……」 ニカッ、といつもの笑顔で笑うがっくん。 私も、釣られて笑った。 「よ。来たんだな」 気がつけば、亮とジローちゃんがやってきていた。 「おはよー、!」 「おはよ、亮。ジローちゃん」 「へへ、来てくれて、嬉Cー。お昼、一緒に食べよーね」 「うん。から揚げとなんか交換してね?」 うん、とジローちゃんが笑って頷く。 …………私は、本当に恵まれている。 こんな、素敵な人たちに囲まれているのだから。 昨日味わい、今ももち続けている悲しみは、私だけのものじゃない。 みんなで共有しているものだ。 悲しみはやがて『過去』になり、過去を共有する私たちの『絆』になる。 それが、私たちをよりいっそう、繋げる。 ―――少しばかりの静寂が、流れた。 みんなが何かに思いを馳せるかのように、言葉を発しない。 「…………あーぁ……もう部活、ねぇんだよな……」 静寂を切り裂き、小さく呟いたのは、がっくんだった。 それをしみじみと聞いていると、突然亮が、あっと声を上げた。 みんなが亮のほうを向く。 「?どしたの、亮」 「……普通に俺、今日ラケット持ってきちまった……」 一瞬、時が止まった。 最初に、ぷっ、と噴出したのは、がっくんが先か、ジローちゃんが先か。 だけど、その後の大爆笑は、全員同時だった。 「あはははっ、そーいえば宍戸、ラケットバックだった!俺も普通に見過ごしてたC〜!」 「見過ごすなよ〜!でも、実は俺も今日、目ェ覚めて時計見てから『やべぇ、朝練!』って叫んだ!」 「なんや、朝練やってる時間帯に登校しとると、罪悪感あんねんなぁ〜」 「わかるわかるっ!『今頃、部活やってるんだよな〜』って、思っちゃうよね!」 ひとしきりそうやって騒いで―――ぽつり、とがっくんが呟いた。 「……部活、行きてぇな〜……」 その言葉に、誰もが頷いた。 再び訪れる、静かな時間。 「……ったく、お前らも大概のテニス馬鹿だな」 それを破ったのは、今まで黙っていた景吾だった。 呆れたような表情で吐息を吐き出し、腕を組んで私たちを見ている。 「なんだよ、跡部―――」 そこまで言って、亮が言葉を止めた。 景吾が、いつものように、ニッと笑ったのだ。 みんなの表情が、ふっと変わる。 今日の表情―――いつもと同じように見えて、どこか寂しげだった表情が、変化する。 期待を含んだ、それに。 「……そんなテニス馬鹿のお前らに朗報だ。……今朝、監督から話があって、俺たちの正式な引退は、夏休み後になった」 「へっ?どーゆーことだよ、跡部!」 「バーカ、話は最後まで聞け。……引継ぎも全然終わってねぇし、次の部長なんかもまだ正式に決めてねぇだろ?俺たちの時間のある限り、後輩の育成に力を注げ―――それが、監督からの俺たちへの指示だ。高校はそのままテニス関係で進めるだろうし、夏休みだって、どーせお前ら、部活なくなったって勉強なんざしねぇで暇なんだろ?」 景吾の言葉に、ガクガクと頷いて、がっくんと亮が全力で肯定を表現する。 「つまり、だ。……出来る限り、部活に顔を出して、後輩を指導しろってことだ。わかったか?」 「……ってことは、部活出ていいってことだな!?」 「だからそう言ってんだろうが」 「……ぃよっしゃ―――!!!俺、毎日でも行ってやるぜ!」 「あ、俺、ガット張り直しに行かなきゃ!1日でやってくれるとこ、どこだっけ!?」 バタバタと騒ぎ出したみんな。 がっくんやジローちゃんはハイタッチをして喜んでいる。亮もガッツポーズをしているし、侑士も本当に嬉しそうに笑っている。 もちろん、私もものすごく嬉しい。 ……まだ、部活に携われる。 みんなと一緒に過ごす、大切な時間を失わずに済むんだ。 『引退』はやがてやってくるものだけど―――まだ、終わりにしたくはない。 思い返してみれば、やり残したことはいっぱいあるんだ! 「へへっ……良かった」 「?なんだ?」 私の呟きに、反応を返してきたのは、景吾だ。 騒いでいるがっくんたちを見ながら、私はバッグを指差して、苦笑する。 「実は私も―――部活ノート、持ってきてたから、さ。無駄にならないじゃん?」 ……景吾が小さく笑って、頭に手を置いてきた。 「……お前も立派な、テニス馬鹿だな」 「やだなぁ。1番のテニス馬鹿は景吾でしょ?」 「「「「違いない」」」」 どこから聞いていたのか、ぴったり揃ったレギュラー4人の声。 教室を、大爆笑の渦が包んだ。 NEXT |