今日は土曜日。 本来なら休日で、と2人過ごしているのだが、今日は会社に出勤していた。 は、来週には予定日を迎える。予定日周辺にはちゃんと休みが取れるように、仕事を詰めていた。 今日のこの書類が最終段階。これを届ければ、仕事は一段落だ。 後は、思う存分についていてやれる。 会社に出向き、他の書類なども一まとめにして持ち、取引先へと移動する。 後は、取引先にこの書類を渡して終わり。―――あぁ、そうだ。あの会社の近くには、美味い和菓子屋があったな。に土産でも買っていくか。 車で1時間ほどの所にある取引先。 会社について車を降りれば、秘書が出迎えに来ていた。 「お帰りは我が社の車で送るように、と社長が」 その言葉に頷いて、運転手を先に帰らせる。 案内されるままに会社に入り、社長応接室へ。 「跡部様、わざわざお越しくださいまして―――」 つらつらと並べ立てられる社交辞令に一応の返答を返し、先を促す。 ……忍足たちがなにかやらかす前に、早く帰っての傍にいたい。 少し忙しげに、書類を渡した。 その場で細かいことを確認し―――一応の終着点につく。 「……それでは、どうぞ今後ともよろしくお願いします」 「こちらこそ」 握手を交わして、さぁ立ち上がるか―――と思ったところで、スーツのポケットが振動した。 この独特のバイブは―――。 相手が『どうぞ』と言う前に、非礼を詫びた。 「……失礼」 内ポケットから携帯を取り出して、通話ボタンを押す。 相手が誰かなんて、わかりきっていた。 「……?どうした?」 専用の着信メロディは、マナーモードでも独特のバイブ音を鳴らす。 一発でからの電話だとわかるように。 …………だが、が仕事中だとわかっているのに電話をかけてくるなんて、なにかあったのだろうか。 『あ、け、景吾……?今、平気?』 電話向こうのは、やはり俺が仕事中だということを気遣っている。 相手に軽く頭を下げると、再度、『構わない』とジェスチャーをされた。 「あぁ、構わない。で?どうした?何かあったのか?」 俺の問いかけに、しばしの沈黙。 ……どうしたんだ? もう1度問いかけようかと思ったら、ようやくの声が聞こえた。 『…………あの、ね……実は……破水、しまして』 ――――――頭の中が真っ白になるというのは、このことか。 言われた言葉の意味を理解することが出来なくて、何度も何度も頭の中で反芻する。 ……ハスイ? それを漢字に置き換えると――― 破水、か? 「………………………は?」 それでも未だ理解しきれず、出てきたのは、たった一言。 『えーっと、だから……破水して、陣痛来た。……から、病院向かってる』 ズルリ、と携帯が手から滑り落ちて、テーブルの上に盛大な音を立てて落ちる。 「あ、跡部様!?」 取引先の相手が、驚きの声を上げた。 それでハッと覚醒した俺は、慌てて携帯を掴んだ。 『け、景吾!?』 「すぐに向かう!お前、今ドコだ!?」 『えっ、今!?……わ、わかんない……お散歩しに、みんなと新しく出来た自然公園に来たんだけど、そこで破水して……』 「あぁ……ってことは、そこに忍足がいるな?替われるか?」 『い、いるけど、運転ちゅ……イタッ……イタタタッ』 の苦しそうな声が、電話越しに聞こえてきた。 「!?」 『ちゃん?痛み、また来たか?』 小さく聞こえる、忍足の声。 ……冷静な声だ。いつものようなバカはやらかしていないらしい。 こういう状態のコイツなら―――なんとか、の力になるだろう。 「、大丈夫か?……忍足と替われ」 『う、うん…………侑士、景吾が替われって』 電話の向こうで、ゴソゴソと動く音がする。 『……替わったで、跡部』 「今、どこにいる?」 『自然公園出て、国道走っとるトコや。病院までは……そやな、20分ちょいくらいで着くと思うで』 「わかった。……俺もすぐに向かう。今、出先だから少し時間がかかると思うが……それまで、のこと頼んだ」 『……了解。まかせとき。……早くせぇよ、跡部』 「言われなくても、わかってる。……もう1度に替われ」 『あぁ。……ちゃん』 忍足の声が遠くなり、また、ゴソゴソと動く音。 『……け、景吾?』 の声は、不安げだ。 ……傍にいてやれない自分に、腹がたってきた。 『すぐ向かうから。……それまで、頑張れよ』 今は、ただ遠く離れた場所から、声しか届けることができない。 少しでも、の不安がなくなるように、務めて冷静な声を出した。 『……うん!が、頑張る……!』 聞こえてきたのは、先ほどより明るいの声。 それを聞いて、俺は小さく息をついた。 「……よし。じゃあな、また後で」 電話が切れたことを確認して、携帯を閉じる。 「……奥様ですか?なにやらお急ぎのご様子でしたが……」 「失礼しました。……えぇ、妻からなんですが……陣痛が始まったと」 「それはめでたい!……あぁ、では早急に車を用意させましょう」 「ありがとうございます」 社長が内線電話を手にとっている間、書類をまとめる。 俺にしては珍しく―――何度も書類を落としかけた。 ……まずいな、何も手につかねぇ……。 少し苦笑して、落ち着けるために息を吐き、なんとか荷物をまとめる。 ほどなく、車の準備が整ったと秘書が入ってきた。 心持ち早足で、エレベーターに乗り込み、車へ向かう。 「跡部様……おめでとうございます」 車に乗るときに、そう言ってきた社長に、1つ頭を下げた。 発進する車。あらかじめ事情が話してあるのか、少しスピードが早い気がする。 ちらっと腕時計を見た。 5時―――ここから病院まで、急いで1時間半、というとこか……。 ふぅ、と息を吐いて、窓の外を見つめた。 しばらくは快調に走っていたものの―――段々と、止まる回数が多くなってきた。 先ほどから5分ほど、車は動いていない。 「……おい、どうした?」 痺れを切らして聞いた俺に、返ってきたのは困ったような声。 「どうやら……渋滞みたいです。……おかしいですね、まだ混みはじめる時間帯ではないはずなんですが」 今日は土曜日。ましてや夕方ともなれば、交通量は増すだろう。 だが……それにしても、混みすぎている。 何かあったか―――と思っていた矢先、眺めていた窓の外に、赤い点滅が見えた。 「………………事故か……?」 俺の呟きに、運転手が車を1度降りて確認に出た。 数分後、戻ってきた運転手の言葉は、やはり『事故による渋滞』というもの。 「……ちっ……なんて間の悪い……」 こんなときに限って、どうして渋滞なんだ。 他の日に渋滞してろ。こんな大事なときに事故るな、バカが。 心の中で悪態をつき……ちらりともう1度腕時計を見た。 7時。本来ならもう着いている時間だ。だが、この状態だと、いつ車が動き始めるかわからない。 この渋滞が緩和されるには、まだ時間がかかるだろう。 そうなると、病院に着くのは、8時か、9時か―――。 には『すぐ行く』と言った。 あいつには、母親もいない。俺がいなければ、他の誰も身内がいない(忍足たちはいるだろうが) 初めての出産で、ただでさえ不安に思っているだろうに―――。 ぎゅっ、と拳を握り締めた。 「〜〜〜代われ!」 「……は?」 バン、とドアを開けて外に出て、運転席のドアを開ける。 目を白黒させている運転手を、半ば強引に外へ連れ出し、代わりに運転席に座った。 「あ、跡部様!?」 「乗るなら後ろに乗れ」 「あ、あの……!?」 ドアを開けて後部座席に乗り込んできた運転手を、バックミラーで見てから、ギアをチェンジする。 「跡部様、なにを……!」 「黙ってろ。舌噛んでも知らねぇぞ」 ギャギャギャギャ、とタイヤと地面がこすれあう音がして、車が急激に後ろに下がる。 運転手の小さな悲鳴が聞こえた。 細い路地に1度バックで入れて、Uターンをして反対側に向かった。 頭の中で、周辺地図を思い浮かべる。 ……最近、仕事でこの辺に来ていたからな、大分頭の中に地図は入っている。 住宅街を通って―――細い道を通っていけば、渋滞に巻き込まれずに行けるかもしれない。 「後、もう少しだけ待ってろ……!」 病院で頑張っているに向かって、小さく呟いて。 グンッ、とアクセルを踏み込んだ。 NEXT |