殴られて熱い頬。 踏みしめる硬い石の感触。 体に降り注ぐ雨の冷たさ。 通り抜ける乾いた埃っぽい風。 ―――あの時のことは、一生、忘れない。 Scene.27 過去。 『残念ながら、バノッサ様には召喚師としての資質に欠けるようです。オルドレイク様のお子様には間違いないのですが……』 こそこそと家庭教師が耳打ちし合っていたのを知っていた。 毎日、勉強の時間にやってくる母は言った。 『お父様のような召喚師になりなさい』 母は、焦っているようだった。 父に―――他に、愛情を注ぐ人がいるのを、薄々勘付いていたのだと思う。 だから、せめて母の言うとおりになるように。 毎日毎日、召喚に関する本を読んで、イメージを膨らませ。 体力増強といわれたら、街の周りをひたすら走った。 読み書きはもちろん、簡単な計算などは、5歳までにすべて覚えた。 詠唱と呼ばれる長い呪文も。 召喚出来る属性や世界などの難しい話も。 言われたことは、ただひたすらに行った。 ―――それでも、『召喚』することが出来なかった。 真の名を呼ぼうとしても、わからない。 いや、正確には、わからないのではない。 『わかりすぎて』いた。 いろいろな名前が、ごちゃごちゃになって頭を駆け巡り、結局は不発として終わる。 『誓約』ではなく、ただ喚び出す作業にしても、目を覆うばかりの輝かしい光は出るのだが、まるで拒否するかのように、バチンッと音が鳴って、何も出ることはなかった。 いつからか、本を読むことが苦痛になり。 走ることが無意味に思え。 覚えた計算が役に立たないことに気づいた。 それでも、『偉大な父』と『愛情を注いでくれた母』のために、がんばったのに。 はじめて父からかけられた言葉は、残酷だった。 「私の子なのに、召喚師としての資質がないとはな…………この、クズが」 生まれてはじめて、父親からかけられた言葉。 言われた当初、その意味がわからなかった。 そして、その言葉を理解し、ぽかん、と父の顔を見上げた。 はじめてみる父の顔。 一瞬だけ、深い青が目に入り――― 頬に衝撃を感じて、目の前は黒で塗りつぶされた。 なんの予測もしていなかったから、まともに吹っ飛び、壁に叩きつけられた。 何が起こったのか。 何をされたのか。 ―――頭を襲う痛みと混乱で起き上がることは、出来なかった。 『……………………使い物にならん』 遠くで声がした。 目の前は、暗いままだった。 足音が、遠ざかっていく。 ―――もう、何も見えなかった。 次に気がついた時にはもう、瓦礫の中にいた。 ……あぁ、捨てられたのか。 そう思った。並の子供以上の頭脳が、それを理解した。 ―――猛烈に襲ってくる、孤独感。 まだ、殴られた頬は熱く、鈍い痛みを伴っていた。 起き上がる気力もなく、意志もない。 そのうち、雨が降り出してきた。 冷たい雨は、容赦なく体に降り注いできた。 なにも、する気にならなった。 どこにも自分の居場所はなかった。 ―――消えてしまいたかった。 ゆるゆると沈没と浮上を繰り返す意識の中。 ふと、空腹を覚えた。 消えたい、と願ったはずなのに、腹が減ったとたん、なにか本能のようなものが目覚めた。 体はまだ濡れていた。 凍えた体は、どこか自分のものではないみたいだ。 震える手で、身を起こした。 放り出されたときに、どこかに引っ掛けたのか、服はところどころ破れていた。 それを気にすることもなかった。 ―――ただ、腹が減っていた。 今まで過剰なまでに与えられていた食事。 何も言わなくても、いろいろなものが出てきた。 失ってはじめてわかる、その尊さ。 ただ、空腹をなくしたくて。 生まれてはじめて、盗みをやった。 体力増強と走っていたことが少しは役に立ったのか、果物屋の主人につかまることはなく。 建物の影で、貪るように果物を食べた。 ―――生きてやる。 たった一つの果物をあっという間に平らげると、ゆらりと立ち上がった。 なにがなんでも生きてやる。 それは、復讐する為。 見返す為。 ―――自分の居場所を、見つける為。 それから……生きるためには、なんでもやった。 盗みはもちろん、恐喝だってした。 捕まって殴られたこともある。恐喝した相手に逆に追いかけられたこともある。 ケンカや襲撃なんて、日常茶飯事だった。 そうした戦いの毎日。 いつしか、治安が悪い北スラムの無法者集団、『オプテュス』のリーダーとなっていた。 『力』がすべて。そう思ったから、二刀流という絶対的な『力』を手に、周囲のゴロツキを力でねじ伏せていた。 北スラムの統率者となってからも、さまざまなことをやった。 このまま、自分はそういう汚い道を生きるんだと思っていた。 そうして、そのまま―――居場所も見つけられず、死んでいくのだと。 そんな時。 かつての自分と同じように、瓦礫の中で倒れてるやつを見つけた。 最初は興味本位だった。 こんなところで死んでるやつはどんなヤツだ、と思って近づく。 擦り傷があり、足には何も履いていない。 うめき声が聞こえた。 ピクリ、と手が動いたのも見た。 それでも、放っておこうと思った。 ―――誰が死のうと、関係ない。 大事なのは、自分が生きること。 そのまま立ち去ろうと思って、歩き出した。 だが、瓦礫に倒れているその人物に、なぜか、かつての自分を重ね合わせて。 ―――振り返ってしまった。 「………………チッ」 舌打ちをして、結局連れて帰ってしまった。 連れて帰ったやつは、変なヤツで、こっちの調子が狂わされっぱなしだった。 くるくるとよくかわる表情。 すごんでも全然恐れずに立ち向かってくる、元気が服着たようなヤツ。 こんな汚い自分に向かって、ニッコリ笑いかけてきやがった。 目が合って、そいつが笑って。 その瞬間、何かが、変わった。 ボロボロと今までの自分が崩れていった。 今まで自分を覆っていた、汚い殻が剥がれ落ちていく気がした。 自分を形成していたすべてのものが、音をたてて崩れていく。 あれほど望んでいた居場所が、そこにはあった。 家に帰れば待っている、『家族』と呼べるような人間。 互いに笑い合い、時にはくだらないケンカもして。 心配し、他人のために行動する。 未だかつてない行動をする自分に驚き、嘲笑した。 こんな生き方、想像もできなかった。 消えたいと願っていた時。 復讐したい、と憎んでいた時。 あれほど自分を追い込むような深い感情ではないけれど。 でも。 でも、確実にこれだけは言える。 ――――――こんな生き方も悪くない、と。 はっ、と目が覚めた。 見慣れた自分の部屋。白と黒のシンプルな部屋。 昨日、居候の少女をこの部屋に招きいれた。そして、一緒のベッドで眠ったはずだ。 ベッドの中に、その姿はない。 ―――オレ様が寝てる間に自分の部屋に戻ったのか? なにか、胸騒ぎがする。 あんな夢を見た後だからだろうか? 朝、まだ早朝と呼べる時間帯。 いつもなら、こんな時間に、絶対に起きない。 ――――――なにか、おかしい。 ドアを開け、隣の部屋をノックする。 寝てる間に戻ったのなら、まだ、寝ているはず。 多少なりとも、反応があるはずだ。 物音が、しない。 急に、不安になった。 あの、置いていかれた、孤独感。 ずしりと、胸に響いて。 ガチャリ、とドアを開けた。 「――――――――居候?」 荷物はそのまま。 つい先ほどまで、この部屋の主がいたような気配。 しかし、ベッドにはなにもなく。 そこにいるべき、 愛しい姿は。 ――――――どこにもなかった。 NEXT |