さん、さん」

退院も間近になった、ある日の朝。
ドアの方から聞きなれた声がした。

大分良くなってきたし、病室内だから景吾も怒らないよね、と自分に言い聞かせて、ドアの方へ歩き出す。

カラリ、と開ければ、そこに立ってるのは初老の紳士。

「こんにちは、会長さん!」

さん、その会長さん、というのはやめてくれんかね……?」

大手子供服メーカーの会長さんが、紙袋を持って立っていた。
歩く練習をしていた時に、少し話したのがキッカケで、最近はよく話すようになった。

「だって、会長さんですもん。……どうぞ〜」

景吾も、会長さんのことは知ってるので、私は普通に病室内に招いた。
もう70過ぎているというのに、会長さんはバリバリ働いている。社長の位こそ、息子さんに引き渡したらしいけど、実質まで会社を動かしてるのは、会長さんなんだって(景吾が言ってた)
入院してるのは、肝臓の検査らしい。……お酒が大好きだから、肝臓を悪くしてるみたい。

「失礼するよ」

景吾が持ってきたソファに腰を下ろす会長さん。
私は、置いてあるポットの方まで近づき、お茶を2つ作る。

「社の者が、菓子を持ってきてくれたんでな、さんにもおすそわけと思って」

紙袋から出してきたのは、高級和菓子。その他にも、お饅頭やらなにやらが詰められていて……お、美味しそう……!

「わぁ、ありがとうございます!うわー、美味しそう……!」

「うむ、ここの和菓子は美味いと評判らしい」

「美味しそうだし、見た目も綺麗ですね……わー、ちょうど甘いもの食べたかったんですよ!」

「そうかそうか。遠慮せず、どんどん食べなさい」

「じゃ……いっただっきまーす♪」

お饅頭を1つ手にとって、2つに割って中を覗いてみる。
黄色い餡子が……輝いてますよ、もう……!

「栗餡だ!」

「ほぅ……どれ、ワシも1つ」

ぱくり、と一口食べれば、おいしい栗の味が口いっぱいに広がって……こ、これは美味い……!お饅頭の皮も、ふわふわで柔らかいし……あぁぁ、美味しい!

ぱくぱくとそれを食べていたら、お茶を飲んでいた会長さんが、お腹に目を向けた。

「…………ところでさん、お腹の子は、いつ生まれるのかな?」

「えーっと、予定日は10月16日です〜」

「男の子かい?女の子かい?」

「調べてないんですよ〜。生まれてからのお楽しみにしようってことで」

会長さんが何か言いかけたところで、ガラリ、とドアが開く。
ノックもなしに開けてくるのは……景吾くらいだ。

「おはよう、景吾」

「あぁ。……おはようございます、滝ノ沢会長」

景吾が軽く会釈をする。
会長さんの顔が、変わった。……なんでなんだろうなぁ、私と居るときは、普通の『おじいちゃん』って感じなのに、景吾が来ると、途端に『仕事人』になってしまう。

「……うむ、旦那に来られては、ワシの居場所もなくなるな。そろそろお暇することにしよう」

ソファから腰を上げた会長さんを、慌てて引き止める。

「そんな、まだお茶も残ってますし……」

「いやいや。また来させてもらうよ。さん、お大事にな。…………さて、景吾くん」

ソファから立ち上がって、ドアの方へ向かう会長さんが、景吾に何か話しかけた。

…………息子にはワシから話を通しておく。例の取引、進めて行こうではないか

……ありがとうございます。では、よろしくお願いします

うむ。……君は、いい人を選んだな。ワシがこの取引を決めたのは、君の奥さんの人柄に惹かれてだよ。さんが選んだ君なら、信用に値する

ちらり、と景吾と会長さんが私に視線を向けてくる。
……な、なんですか……?私に関する話題ですか……!?

……では、またな。…………そうそう、子供が生まれたら、ちゃんと連絡しなさい。もちろん、性別もな。出産祝いに、うちの新作服を送ろう

会長さんの言葉に、景吾がまたペコリと頭を下げた。
会長さんが笑って、私に視線を向け、景吾に小さく何かを言う。
…………内緒話ばっかり、ズルい。

……後、30年若かったら、さんを君から奪うとこなんだが

曖昧な表情を浮かべた景吾は、会長さんが出てくと、ドアをピッタリ閉めてしまった。
そのまま歩いてくると、いつものようにベッド脇の椅子に腰をかける。

…………食えないジジィだぜ……50年の間違いだろ

「へ?」

「……なんでもない。…………、お前のお手柄だ」

「はい?何かした?私」

「……うちの会社と滝ノ沢会長の会社で、新しく、子供服のブランドを立ち上げることになった」

子供服のブランド……?
え、ちょっと待って……跡部家って、まだ子供服関係には進出してないはず……ってことは、新たな事業……!?

「えぇぇぇぇっ!?スゴイじゃん!会長さんの会社って、確か子供服メーカーでは1、2を争う大会社だって……あれ?でも、なんで私……?」

景吾が小さく苦笑しながら、ぽん、と頭に手を乗せてくる。

「わかんないなら、それでいい。…………それはそうと。お前、また甘いもん食ったな?」

景吾が、お饅頭の包み紙を見ながら、少し睨んでくる。
……あぁぁ……だ、だって……。

「……か、会長さんが持って来てくれたから……」

「医者から、甘いもんは控えるように言われただろ?……気をつけろよ」

「うぅ……はーい…………でも、美味しかったんだよ?日本橋にあるお店なんだって。栗餡がいっぱい詰まってて―――あ、言ってたらまた食べたくなってきた……!」

あの、黄金色の栗餡……!ほどよい甘さで、溶けるような滑らかさで―――あぁぁ、また食べたい!

「…………食いすぎないって約束するなら、今度買ってきてやる」

景吾の言葉に、私は思わず歓声をあげた。