妙に教室が遠い。

普段なら朝練をやっているだろうこの時間帯に、廊下を歩くのは、酷く不自然に思える。

同じ学校なのに、どこか違う場所のようだ。

心のどこかが、空っぽになって、風が吹き抜けた。





まだちらほらとしか人がいない教室で、見慣れたメガネを見つけた。
まだHRが始まるには早いというのに、忍足はぼんやりと席に座っている。
朝練がなくなり、時間の使い方がわかっていないのだろう。

ゆっくりと教室に入ると、忍足がこちらに気づいた。

「……あぁ、跡部か。おはようさん」

「あぁ。……ずいぶん早いな」

「ついつい習慣で、朝練の時間に起きてもうて……これでもゆっくり来た方なんやで?」

苦笑しながら言う忍足を通り過ぎて、自分の席へと向かう。

「……でも、そーゆー自分かて、早いやん?」

「俺様は生徒会の仕事があるんだよ。これから行かなきゃならねぇ」

「さよか」

いつものように、本気だかなんだかわからない読めない笑顔には変わりはないが、少し力がないように見える。
横目で忍足の動向を窺いながら、机の中から必要書類を取り出した。

……とうに、俺の隣にいるべき人物がいないことには気づいているだろうに、忍足は何も言ってこなかった。どんな言葉を言おうか、迷っているのだろうか。

ちらちらと俺を見ては、様子を伺っている。
……それに気づかないフリをして、ゆっくりと机から離れた。

「誰か用があるヤツが来たら、生徒会室にいるって伝えておけ」

「……りょーかい」

やはりなにか言いたげだが―――何も、言葉は出てこなかった。
無言でそのまま、教室を出ようとすると。

「……ちゃん、来られなかったん……?」

忍足の声が、背後から追いかけてきた。
結局、聞かずにいることは出来なかったらしい。……そして、器用な言葉さえも、思い浮かばなかったようだ。
小さく息をついて、振り返った。

先ほどと同じような、読めない微笑を湛えた忍足が、こちらをまっすぐ向いていた。

「……昨夜、散々泣いて、疲れて眠って、起きてまた泣いて―――珍しく、強がらずに、アイツがちゃんと自分から『行きたくない』って言ったしな。……今は無理させたくねぇ。寝てろ、って言って出てきた」

「……さよか。……ちゃん、試合会場では最後まで頑張っとったけど……やっぱ、泣いてたか……」

「……まぁ、な」

「……そーか。今日は休みか……寂しい1日になりそうやな」

小さく呟かれた忍足の言葉を聞きながら、俺は生徒会室へ向かった。






担任から、『監督が呼んでいる』という話を聞いたのは、HRが終わった直後だった。
かすかな疑問を感じつつ、すぐに職員室へ向かう。職員室の一番窓際、やたらと派手なその一角に、監督が座っていた。
監督が職員室にいるのを見るのは久しぶりだ。

「……跡部」

こちらが声をかける前に、監督が気づいた。
頭を下げ、職員室に入る。

「お呼びでしょうか、監督」

「うむ。…………は、来てないのか?」

心持ち小さな声になった監督に、頷いて答えた。

「…………そうか。……では、お前から伝えておけ」

試合が終わった後、初めての言葉。
…………監督の口から出た言葉に、俺は少し驚きつつも―――ようやく、昨日からざわついていた心が安定を取り戻してきたことに気づいた。
次にやるべきことが見えた。そう、まだまだ俺たちは進まなければならない。

「……わかりました。俺から全員に伝えておきます」

「あぁ。……では、行ってよし」

お得意のそのセリフ、ポーズをきっちり見届けて、再び頭を下げる。
そのまま早足で廊下を歩き、教室に滑り込んだ。教室に滑り込むと同時に、授業開始のチャイムも鳴る。
挨拶をして席につくと、斜め後ろから声がかかった。

「さっき岳人たちが来たで。お前がおらんことと、ちゃんが休みやってこと伝えたら『後でまた来るから、休み時間、ちゃんと教室いろよ』って言うて帰ってったわ」

「……ったく……」

朝っぱらから騒々しいやつらだ、とため息をついた。
アイツらは、が休みだということを知って、どう思っただろうか。

「…………で?監督の話ってなんだったん?」

忍足は俺が担任に呼ばれたのを見ていたのだから、当然の疑問だ。

「あぁ、俺たちに―――」

そこまで言って、言葉を止めた。
……こういうことは、全員一緒の時に伝えたほうがいい。

どうせ、岳人たちは次の休み時間、さっきの言葉のとおり、ここへやってくるのだろう。
岳人は―――にメールでもするかもしれない。いや、きっとする。アイツは、用がなくてもしょっちゅうメールを送ってくるから。それに便乗して、ジローもメールを送りそうだ。

アイツらからのメールをが見たら―――。

なぜだろうか、まるで目に見たかのように、その後の行動が想像できた。
が―――立ち上がる姿を。

…………無理してほしくはない。

が珍しく、自分で辛さを認めたんだ。ゆっくりと休ませてやりたい気持ちもある。

だが、アイツなら―――。

「……跡部?どないしたん?なんか、ヤバイことやったん?」

言葉に詰まった俺を、忍足が訝しげな顔をして覗き込んだ。

「いや。……後で全員が揃ったときに話す」

全員。
今、ここにいる俺たちと―――と。

昨日共に戦った仲間、全員がいるところで。

俺たちの進む道のことは、全員で。

「…………?……ま、えぇわ」

忍足の言葉に、小さく頷いた。





「なぁなぁ、に全員一斉にメール送んねぇ!?」

「あ、いいね〜。面白そう〜!」

「一斉に送って、なんの意味があるんだよ……」

「ホンマやな。……ほい、送信〜」

「あっ、クソクソ侑士!抜け駆けしやがって!バカヤロ!」

「アホ、岳人。こーゆーんは早く送ったもん勝ちや。なぁ、宍戸?」

「……うし、送信完了、っと」

「あぁぁ、宍戸までー!……岳人、俺らだけは一緒に送ろ〜」

「おぅ、ジロー!…………じゃ、行くぞ。せーのっ」

「…………バカだろ、お前ら…………」

「とか言いつつ、跡部もメール打ってんじゃんか!」

「シメは俺様に決まってんだろ、あーん?」

案の定送ることになったメール。
に届いた5通のメールは、何を伝えただろう。
……俺たちが伝えたかった思いは、届いているだろうか。




―――その後、教室に現れたを見て、俺はゆっくりと、微笑んだ。