縮まったかのように見えた距離は

また微妙な長さを取り戻していて

寂しいと感じている自分が

なんだかとても小さく思えた



存在証明




「おはよ〜…………」

起きたばかりの私は、ぼんやりと椅子に座る。
ぼーっとしているうちに、湯気を出している、温かいパンが目の前に置かれる。

「おはようございます、さん。今日は早いですね?」

「うん!ずっと雨続きで釣りに行けなかったから、今日こそは、と思ってね?」

あぁ、と笑ってカノンは、私の前に座った。
いただきます、と言った私に、どうぞ、と優しく笑いかけてくれる。

「あちち………ん〜、おいしいvv……ま、久しぶりにアルク川でひなたぼっこしたい、ていう目論見でもあるんだけど」

「クスクス。あまり遅くならないうちに帰って来てくださいよ?」

「は〜い!」

もぎゅもぎゅ、ごっくん。
パンをほおばり、サラダを食べて、スープを飲んだ。
……はぁ、幸せvv

と、そんな余韻に浸る暇もなく、私はごちそうさま、と手を合わせて立ち上がった。

さぁ、出かけようと釣竿を持って、外へ向かう。

さん、今朝の残りでよければ、お弁当持ってってください」

と、カノンが包みを渡してくれた。
まだ、ほのかに温かい。

「いいの?」

「はい。…………バノッサさん、帰ってこないんで」

………………そーなんだよね。
昨日……ううん、一昨日から帰って来ていない。

一応、私は告白……をしたのだけれど。
そして……多分、彼も答えてくれたのだとは思うけど。

まったく以前と変わらない態度。
どこか人を見下したようで、冷めたような。

プルプルと頭を振って、私は考えを頭から放出した。

「ありがと!行ってきます!」

カノンは、一瞬開きかけた口を止めて、笑ってくれた。

「…………いってらっしゃい」

…………心配してくれて、ありがとう。



アルク川についてから。
釣り糸をたらした私は、ぼ〜っとその場に体育座りをしていた。

『釣り』という趣味を持ったのは、この世界に来てからだ。
元の世界では、釣りなんて興味もなにもなかった。もちろん、日常生活でも接点は0。魚なんて、スーパーのパック売りを見るくらいだった。

クスリ、と思わず笑ってしまう。

「そーいえば、そんな世界もあったよね…………」

スーパーマーケット。
学校、映画館、マクドナルド。
テレビ、MD、携帯電話、パソコン。
電子機器に囲まれて、なんでも手に入る世界だった。
当時は、そうは思わなかったけれど。
やっぱり、あの世界は恵まれていた。

ぽろり、と涙がこぼれて来た。
無理やり袖で拭い取る。

「ホームシックなんて、柄じゃないって、私!」

パンッと両頬を叩く。
そして、カノンがくれたお弁当の包みを開けた。
出てきたパンを、1つほおばる。

「…………おいしい!おなかいっぱい!大丈夫!」

ぼろぼろと泣きながらも、私はパンを食べた。

「…………大丈夫……ッ」

バノッサだって、ちょっと帰ってこないだけ。
永遠にいなくなるなんてことはない。
たとえ、思いが通じなくても、存在しているだけでいい。

…………最後に見た姿、妖艶な女の人と一緒にいた、その首筋に、紅い痕跡があったなんて、忘れる。

「…………大丈夫ッ……」

自分はなんのために、この世界にいるのか。
――――――この世界にいて、いいのか。

涙が……止まらなかった。



やがて、びくびくとさおをひっぱる力に気づく。
涙を拭いて、竿を握った。
重い。かなりの大物だ。
グンッと引きずられるのを堪えて、ひっぱる。
リールを少しずつ巻いていった。
大分引きよせて、よし、とひっぱりあげたとき。
ぷつっ、と糸が切れた。
いきなり力のやり場がなくなった私は、吹き飛ばされたようにひっくり返った。
しこたま背中を打ち付ける。
息がつまった。
当然魚は逃げたし、糸が切れたところで、今日はもう釣ることは出来ない。

「…………あ〜あ…………もう、帰ろ」

糸の切れた竿などの荷物を持って、その場を離れる。
なんだか、打ち付けた背中以上に、胸が痛かった。

工場区に向かって歩く。一番の近道を目指して。
その途中で、頬に落ちる一粒の雫。

「…………あ?」

そして、イキナリ矢のような雨。
さっきまで、晴れていたのに。
あ、と思う暇もなかった。瞬く間に地面の色が変わっていく。
そして、ここは南スラムの途中。
雨宿りをする場所を探すが、どこも屋根はその役目を果たしていない。
フラットに向かう道は、今日に限って通ってこなかった。

「…………ホントに、今日はついてない…………」

すでに体の大部分が濡れている。もはや、雨宿りをしても無駄だろう。
だから、私は。
雨に降られたこととか、今日起こった運の悪いことすべてのせいにして。
誰もいないその場にうずくまって、泣いた。



「…………なにやってんだよ、オマエは」

うずくまって、どれくらい経っただろう。
頭上から聞こえてきた声に、のろのろと私は反応した。
水滴が視界をぼんやりとしたものにさせる。
それでも、声だけで誰かは判別できていた。

「んなとこにうずくまりやがって…………今度はなんだ」

「…………なんでもない」

はぁ〜、と大きなため息が聞こえた。

「……今更なんでもないなんて、通ると思ってんのか?」

「………………平気だもん」

「…………どこがだ、んなツラしやがって」

ぐいっと顔を上げさせられた。
久しぶりに見る、顔。
紅い瞳が、怖く感じて。
視線を思わず外した。

「……居候?」

「なんでも、ない……からっ……大丈夫ッ……」

どうか、どうか。
溢れてくる涙が、雨の雫と混ざっていますように。

「たまには……雨に打たれてみたい気分だったの……ッ……水もしたたるいい女?ってヤツ?」

寂しいなんて言わない。
言いたくない。

ここにいていいの?
そんなこと、言いたくない。

言ってしまったら、その答えがを聞かなければならないから。

でも、その答えが返ってこなかったら。
…………私が、存在してもいいという証拠は、どこにあるのでしょう?

「さ、帰ろうか!も〜、バノッサまでずぶ濡れじゃん!カノンに怒られるよ?」

少しはしゃぐように、水溜りへ音を立てて入ってみる。

「……居候」

「ん?なぁに?」

「…………はしゃいでいればオレ様をごまかせると思うな」

時が、止まった。
笑顔が張り付くのが、わかる。

「…………一体、どうした」

優しい言葉が、心に芽生えた寂しさを、1つずつ拭い去っていく。

「なにが、あった」

涙が雨と共に、ポロリと落ちていく。

「……さみし、かったんだもん…………ッ……ちょっと、ホームシックになっただけだもん……ッ」

「……………………後は」

ぶわっと涙が膨れ上がるのが、自分でもわかった。

「バノッサは……帰ってこないしッ……首筋に……痕はついてるし……ッ……雨は、降るし……ッ……釣糸は切れるし……ッ……背中は打つしッ!」

なにを言ってるのかわからない。
もう、なんでもいい。


―――この、包んでくれる温かい腕があるならば。


私は、バノッサの手にしがみついて泣いた。

「う〜〜〜…………」

ぽんぽん、と叩かれた頭が、熱を帯びて。
見上げれば落ちてくる、口付け。
降り注ぐ雨のように。

「……んぅ……ッ……ふっ……!?」

…………な、なんか温かいものが、口の中に入って……ってぇぇぇぇぇ!?
上の歯の後ろをなぞられたとき、ゾクリと背中があわ立った。

「んっ!………はぁ……ぅ……ッ!」

頭の中が空っぽになった。
もう、寂しいとかそんなのぜーんぶ、遙か彼方へ。

カクンと足の力が抜けた。
腰を支えられて、なんとか踏みとどまる。

それと同時に体を離されて―――。

腕をつかまれて、強引に歩かされた。

「ちょ、ちょちょ、ば、バノッサ?」

「………………悪いが、止める気はねェからな」

「………………は?」

ズンズンと歩いていき、繁華街へ。

「?????バノ……って、ココ……ッ」

安い宿屋。私の世界で言う『ラブホテル』と呼ばれる、宿屋だ。
…………1番最初に、バノッサとカノンに近づくな、と言われたところ。

周りには、お世辞にもガラがいいとは言えない男女。特に女の人のほうは、やたらと薄い&生地の少ない服で、あきらかに体を売っている、とわかる。

ガンッと蹴って扉を開け、フロントに向かうバノッサ。
さっさと鍵らしきものを受け取ると、2階へ連れてかれる。
…………口を挟む時間もなかった。

部屋について、タオルを渡されてから、ようやく口を開くことに成功する。

「あのー…………バノッサさん?」

………………あー…………無視ですか?
ってか、この状況はどうなんでしょう?

濡れたままではマズイので、とりあえず近くにあった宿屋に入った。

さしずめ、そんなところでよろしいですか?

「雨、ひどいねぇ…………どれくらいで止むかな?」

「居候」

「うぁ!はい!」

イキナリ声をかけるもんだから、ビックリするよ。

「こっち、来い」

「へ?」

ベッドサイドにいる、バノッサ。
腰に挿していた剣を、取ってサイドテーブルの上に置いた。

…………え?

「バノッサ?」

目が、怖いくらい、私を見つめてる。
タオルが、するりと手から滑り落ちた。

「バノ…………」

名前を言おうとしたら、さえぎられて。

「抱きたい」

と、一言、呟かれた。